カテゴリー別アーカイブ: 美術品・骨董品

東京都練馬区石神井台にて掛軸、屏風、御所人形、古伊万里、はぎれなど。

 

東京都練馬区石神井台にて掛軸、巻物、屏風、御所人形、煙草盆、古伊万里、古ガラス、アンティークはぎれなどをお売りいただきました。

先日、お蔵の整理でお呼びいただきましたお客様から再度お呼びいただき、骨董品などを買取させていただきました。買取できるお品の数が多くあり、数回に分けての買取にしていただき、本日が二度目の出張買取となりました。本日お売りいただきましたお品は、掛軸、巻物、屏風、御所人形、煙草盆、古伊万里、古ガラス、アンティークはぎれなど。江戸から昭和初期にかけてのお品が保管されていたお蔵の蔵出し。お蔵の中は暗い為、ブルーシートを敷いていただき、蔵からお品を出しては並べての査定となりました。数が多くございましたが、一点一点丁寧に査定させていただきました。掛け軸は日本画、書、仏画など多数。江戸時代のものがおおくございました。屏風は日本画、巻物は書。残念ながらしまったままの状態でしたので、全体的に虫食いがひどく進んでいる状態でございました。古ガラスは戦前のグラスなど、何点かカケがありました。古伊万里は白磁の壷や煙草盆など。お人形は江戸期の御所人形など。御所人形は、朝廷の御慶事や御出産、御結婚など、祝祭事の際に飾られてきた人形。 江戸時代に西国の大名が参勤交代で江戸に赴く途中、京都の宮廷に立ち寄り、贈り物をした際の返礼としてこの人形が贈られ、宮廷や公家、門跡寺院等の高貴な人々の間で愛された人形であります。江戸時代末期には一般にも普及しました。幼童のあどけない姿を大きな頭と横ぶとりの丸々とした裸体で表現しています。桐材を用いて胡粉(ごふん)で膚を白くみがきあげます。本品のように江戸時代には人毛を使ったりしたものもございました。こちらもしまったままの状態でしたので、残念ながら毛が抜け落ち、肌地にひび割れなどございました。アンティークはぎれは明治から昭和初期のもので、色鮮やかなものや藍染のものなどございました。こちらは捨てようとされていたもので、こちらにも査定が付き、また次へと繋げることが出来、お客様にお喜びいただきました。お蔵に長年しまったままのお品ですので全体的に状態に難有りではありましたが、全て買い取らせていただきました。ご先祖様が残された大切なお品々、大切に次へと繋げさせていただきます。まだまだ時代家具や古伊万里などの古陶磁器、古書などがお蔵に眠っております。また近日お呼びいただけるとのこと、楽しみにお待ちしております。本日も帰りに美味しいお弁当をいただきました。そぼろがとっても美味しかったです。ご馳走様でした。本日も六角堂のご指名、誠に有難うございました。

東京都狛江市にて金重陶陽の備前徳利、伊藤國男のブロンズ「馬」

東京都狛江市にて人間国宝 金重陶陽の備前徳利、伊藤國男のブロンズ「馬」をお売りいただきました。

お荷物の整理にてお呼びいただきました。伊藤國男のブロンズや陶器をご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただきましたお品は、金重陶陽の備前徳利、伊藤國男のブロンズ「馬」の二点。伊藤國男は馬像彫刻の第一人者として有名な作家で、当社でもよく取り扱う作家さんです。お売りいただきました作品は残念ながら尻尾の先部に難がございました。共箱無し、難有のお品ではありますが、買取強化中の作家作品ですので、あまり減額せずに買取させていただきました。生涯にわたり馬像の制作を続けた伊藤國男の作品、まるで生きているかのような表情でとても精巧に造られております。陶器は備前焼で初の人間国宝となられた金重陶陽の備前徳利。共箱、二重箱に納められております。キメ細やかな胡麻や焦げ、緋色などを備えた多彩な焼き味を見せる作品であります。お売りいただきました二点、共に素晴らしい作品でした。ご実家に備前焼がたくさんあり、ご処分される際にはまたお呼びいただけるとのこと、楽しみにお待ちしております。帰りに美味しいコーヒーを入れていただきました。ご馳走様でした。本日は六角堂をご指名いただき、誠に有難うございました。

金重陶陽(かねしげとうよう) 1896年(明治29)~1967年(昭和42)
金重陶陽は金重楳陽の長男として岡山県備前市伊部に生まれました。本名を勇といいます。
1910(明治43)年、伊部尋常高等小学校を卒業後、父に師事して細工物に従事しました。
1918(大正7)年、色絵(彩色)備前を造り始め、この頃より「陶陽」の号を用い始めました。
1928(昭和3)年、備前飛獅子置物、彩色備前鬼瓦に鳩置物を天皇陛下に献上されました。
茶道具の基本を学ぶ為、表千家流に入門。
1930(昭和5)年、備前焼の本質を無釉焼き締めの土味に求めて土の生成法を発見し、
桃山備前の土味を再現する事に成功しました。
江戸時代から伊部で用いられてきた水簸土は土味を失うからとして使用を止めました。
1932(昭和7)年、本格的に轆轤制作を開始し、陶印を「陶陽造」等から「土」に改めました。
以前までは細工物を中心に焼成していましたが、
古備前の豪快で侘びた美しさに傾倒して作陶の主題は茶陶へと移行します。
武者小路千家12代愈好斎宗守が来訪したのを機にその門に入門しました。
高松宮両殿下が備前町行啓の際、御前制作を行いました。
1936(昭和11)年、三重県津市の川喜田半泥子の千歳山窯を訪れて作陶。
1939(昭和14)年、再び三重県津市の川喜田半泥子の千歳山窯を訪れて作陶。
川喜田半泥子、弟・金重素山と岡山県邑久の虫明窯を訪れて作陶しました。
皿等の重ね焼きで緋襷の焼成に成功しました。
1941(昭和16)年、三重県津市の川喜田半泥子の千歳山窯を訪れて作陶。
金重素山の出征を機に窯を改良し、古備前の窯変に画期的な成功を収めました。
1942(昭和17)年、川喜田半泥子、荒川豊蔵、10代三輪休雪とからひね会を結成しました。
備前焼の技術保存資格者に認定されました。
1944(昭和19)年、日本美術、工芸統制協会代議員に就任。
1945(昭和20)年、岐阜県大萱の荒川豊蔵の窯を金重素山と訪れて作陶。
1947(昭和22)年、生活用品芸術陶磁器認定委員に就任。
1948(昭和23)年、芸術陶磁器第二部資格者となりました。
1949(昭和24)年、藤原啓、山本陶秀、藤田龍峰、金重素山、浦上善次と備前窯芸会を結成。
1951(昭和26)年、京都府亀岡市の大本教本部が花明山窯を築窯する際、指導を行いました。
1952(昭和27)年、備前焼の無形文化財記録保持者に認定されました。
以前から親交のあった北大路魯山人がイサム・ノグチを伴って来訪し、作陶を行いました。
北大路魯山人から食器の世界、前衛彫刻家のイサム・ノグチから造形の強烈な個性を受け、
この大家との出会いが陶陽の作陶に大きな変化と幅を持たせる事になりました。
魯山人の「ロ」に倣って陶印を「ト」に改め、次第に小さくなって最後まで使用しました。
秩父宮妃殿下が金重家を御来訪されました。
北大路魯山人が北鎌倉山崎の邸内に備前窯を築窯する際に協力し、
ここで志野、織部、瀬戸、伊賀等の土物を多数制作しました。
石黒宗麿、荒川豊蔵、加藤唐九郎、宇野三吾と日本工芸会の設立を協議しました。
再び、花明山窯を訪れて指導しました。
1954(昭和29)年、熱海伊豆山桃李郷で石黒宗麿、加藤土師萌、小山冨士夫、荒川豊蔵、
加藤唐九郎、小森松庵、黒田領治、佐藤進三と桃李会を結成。
岡山県重要無形文化財に認定されました。
山口県萩市の吉賀大眉窯、佐賀県唐津市の中里太郎右衛門窯を訪れて作陶しました。
1955(昭和30)年、日本工芸会が結成。
1956(昭和31)年、重要無形文化財「備前焼」の保持者(人間国宝)に認定されました。
1959(昭和34)年、中国文化賞を受賞。
1960(昭和35)年、山陽新聞文化賞、岡山県文化賞を受賞た。
岡山県文化財保護協会理事、備前町文化財保護委員会委員長に就任。
1961(昭和36)年、石黒宗麿、加藤土師萌、小山冨士夫、荒川豊蔵、宇野三吾と柏会を結成。
京都府綾部市の大本教本部の鶴山窯で備前や信楽を焼成しました。
1962(昭和37)年、日本伝統工芸展審査員、日本工芸会理事に就任。
1963(昭和38)年、島根県知事・田部長右衛門の招きで出西窯を訪れて作陶。
1964(昭和39)年、ハワイ大学夏季大学講師に就任。
1965(昭和40)年、岡山県工業試験所陶磁器指導所講師に就任。
1966(昭和41)年、ハワイ大学夏季大学講師に就任。
紫綬褒章を受章しました。
1967(昭和42)年、昭和天皇両陛下が備前町行啓の際、御前制作を行いました。
勲四等旭日小綬章を受章。この年、71歳で逝去。

伊藤國男(いとうくにお)1890年に岩手県生まれの彫刻家。
10人兄弟で家計を助けるためにある彫刻家の内弟子となり、その頃に馬と関ったことがきっかけで馬像を彫るようになりました。騎兵学校や御料牧場を訪ねては馬像の制作に励み、やがてその作品は天皇陛下の元にも置かれるようになりました。モデルとなった馬たちが次々と戦争で命を落とすことに心を痛め、全財産を費やして戦没馬慰霊像を制作しました。生涯の全てを馬像制作に捧げたといわれている作家でございます。

東京都文京区千駄木にて株木秀明 鋳銅筍に雀、龍村平蔵の名古屋帯。

 

東京都文京区千駄木にて明治期の金工師 株木秀明 鋳銅置物「筍に雀」、龍村平蔵の正倉院文様名古屋帯、着物をお売りいただきました。

業者様のご紹介で、解体前のお片付け整理でお呼びいただきました。お着物をご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、明治期の金工師 株木秀明 鋳銅置物「筍に雀」、龍村平蔵の正倉院文様名古屋帯、お着物など。お着物は少々古いものではありましたが、保管状態よくシミ汚れなどはほとんどみられませんでした。京友禅の総刺繍黒留袖、上布のものなどもございました。帯は龍村平蔵の正倉院文様名古屋帯、川島織物など素晴らしい帯がございました。和装小物を含め、全てお売りいただきました。筍に雀の置物は、明治の金工師 株木秀明の作品。雀の表情、筍の繊細な造りが大変素晴らしい作品です。共箱などの付属品はありませんでしたが、お客様にご満足いただける査定額で買取することが出来ました。次回お茶道具をご処分される際にまたお呼びいただけるとのこと、楽しみにお待ちしております。本日は素晴らしいお品々をご売却くださり、誠に有難うございました。

龍村平蔵(たつむらへいぞう)
初代龍村平蔵は、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)で構成される織物を、独特の陰影をたたえた立体の造形としてとらえ、新技法を次々と生み出しました。数々の特許を取得し、織物を芸術の域まで高めた先駆者として、近代染織史に大きな足跡を残されました。当代の四代平蔵にいたるまで、きらびやかな錦の帯、法隆寺や正倉院に伝わる古代裂(ぎれ)の復元、祇園祭など各地の祭りの山鉾(やまぼこ)などにかけられる懸装品などで、今なお染織分野の最高峰であり続けています。
龍村平蔵略歴
1876年、大阪博労町に生まれる。
幼少の頃から茶道、華道、謡、仕舞、俳諧と文芸美術の豊かな環境の中で育った。
16歳で祖父が死去し、それをきっかけに府立大阪商業学校を中退し、家業の西陣にて呉服商の道へ進む。
当初は呉服販売に従事していたものの、徐々に織物の世界へと傾倒する。
その後、自ら機場に入るようになり、織物の研究・制作に没頭する。
18歳には独立し、商売も順調に拡大した。
1906年には龍村製織所を設立し、若手デザイナーを起用するために当時では異例の学校訪問で採用を働きかけた。
海外から持ち込まれたジャカード機により機械化の幕開けとなり、機械が主流になれば織の技術ではなく図案が良し悪しを左右すると感性に富んだ若手を多数採用する。
1919年 初の個展を開催する。そこで芥川龍之介から絶賛を受け、龍村平蔵の名を不動のものとした。
1956年 日本芸術院恩賜賞を受賞
1958年 紫綬褒章を受章
1962年 逝去

東京都豊島区目白にて明末呉須赤絵花鳥図大皿、お着物、反物。

 

東京都豊島区目白にて明末呉須赤絵花鳥図大皿、着物、反物などをお売りいただきました。

業者様のご紹介で、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。お着物やお爺様が大切にされていた陶器をご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お着物は振袖のセットや黒留袖、訪問着など。反物は丹後ちりめんや大島紬など。また、和装小物も併せてお売りいただきました。明末呉須赤絵花鳥文大皿は17世紀初頭中国明時代の末期に広東省漳州市(しょうしゅうし)一帯で作られたものになります。明末赤絵の魅力はそ豪放な絵付けと造詣の荒々しさにあります。とくに器の縁に見られる「虫食い」と呼ばれる釉薬の剥離、そして高台周りの「砂高台」が特徴的です。砂高台とは焼き物の高台の底に砂の痕(あと)が残っているもの。重ね焼きの際、器物どうしが溶着するのを防ぐために砂をまいたために生じます。李朝陶磁器など、朝鮮の茶碗(ちやわん)などに多くございます。さらには高台内の「かんな削り」の跡などです。呉須赤絵は盛んに海外に輸出したもので、中国に残っているものは少なく、日本や欧米に作品が多く残っているようです。大変古い作品ですので、修理跡やニュウなどあるものが多い明末呉須赤絵ですが、お売りいただいた作品は大変状態の良いお品でした。お爺様が大切にされていたのが伺えます。中国陶磁器は当社で買取を強化しておりますので、お客様にご満足いただける査定額で買取することが出来ました。お売りいただきましたお品々、大切に次へと橋渡しさせていただきます。本日は六角堂のご指名、誠に有難うございました。

千葉県船橋市にて十八世紀 英国民芸硝子花生、岩田久利の花瓶、反物など。

     

千葉県船橋市にて十八世紀 英国民芸硝子花生、岩田久利の手吹硝子花瓶「雪牡丹」、反物などをお売りいただきました。

美術品や反物などをご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、十八世紀 英国民芸硝子花生、岩田久利の手吹硝子花瓶「雪牡丹」、反物など。反物は都喜ヱ門の本場大島紬や結城紬など。状態の良いものでした。18世紀のイギリスアンティークガラス花生は乗馬の図柄。アンティークで大変雰囲気の良いお品。ガラス工芸家 岩田久利の作品は手吹硝子花瓶「雪牡丹」。奥様である糸子の識箱。岩田久利の代表作品の一つであります。岩田久利はガラス工芸家 岩田藤七(いわたとうしち)の長男。妻は、ガラス工芸家の岩田糸子。長女は、イワタルリ。次女は、岩田マリ。東京美術学校工芸部図案科に学び、在学中の同24年第5回日展に「硝子ぶどうの鉢」で初入選。以後、日展に出品を続ける。同26年東京美術学校を卒業。制作のかたわら、東京工業大学でガラスの組成を研究します。同30年第11回日展に「藻」を出品して特選、同31年第12回同展には「萌生」を出品して二年連続特選。同30年より光風会にも出品。同33年日展会員となり、同年からたびたび日展審査員をつとめる。同47年日本ガラス工芸会を設立し、同年より同52年までその初代会長をつとめる。同51年第8回改組日展に「孔雀文大皿」を出品して文部大臣賞を受賞。同57年毎日芸術賞を受賞し、同58年「聖華」で日本芸術院賞を受賞。 父が創立した岩田工芸硝子を継ぎ、社長をつとめつつ制作を続け、斬新で優美な作風を示した。宙吹きガラスを得意とし、国際的にも高い評価を得た。六角堂でも買取を強化している作家さんの一人であります。素晴らしい作品、反物をお売りいただき有難うございました。

岩田久利(いわたひさとし)1925年12月18日~1994年1月8日
1925年 東京新宿弁天町に二代目岩田藤七の長男として生まれる
1939年 小寺健吉画塾に学ぶ
1941年 廣川松五郎に師事、デザインを学ぶ。伊藤熹朔に師事
1942年 和田三造に師事、デッサン、図案を学ぶ。春台美術・本郷研究所に通う
1944年 東京美術学校工芸部図案科入学
1946年 外山卯三郎に西洋美術史およびバウハウス・デザイン運動の理論につき個人教授を受ける
1947年 阿部俊夫(東芝電気ガラス研究所室長)にガラスの科学的基礎を学ぶ
1948年 東京工業大学窯業科ガラス研究室研究生、森谷太郎教授にガラス組成の指導を受ける。株式会社岩田硝子製造所入社
1949年 第5回日展初出品。初入選、以後毎年出品、連続入選。糸子(旧三井物産社長山本正男長女)と結婚
1950年 東京工業大学窯業科ガラス研究室研修修了
1951年 東京美術学校工芸部図案科卒業
1953年 岩田工芸硝子株式会社に社名変更、代表取締役社長となる
1955年 第11回日展特選受賞。国際工芸美術家協会設立、初代理事長。カリフォルニア州博覧会・ブラッセル博覧会にて金賞受賞
1956年 第12回日展特選受賞
1957年 財団法人日本デザイン協議会理事。財団法人世界デザイン会議日本運営設立準備委員
1959年 第2回日展審査員。以後数回
1963年 武蔵野美術大学講師。窯業協会理事(~1967)
1966年 第7回国際ガラス会議年会参加。
1968年 日本硝子製品工業会評議員
1971年 初の個展開催
1972年 日本ガラス工芸協会創立、初代会長。日展評議
1973年 社団法人窯業協会理事(工芸担当)
1974年 現代工芸美術家協会評議員
1975年 第1回「資生堂現代工藝展」に出品。以後毎回出品。岩田工芸硝子株式会社社長を糸子に譲り、ガラス制作に専念する
1976年 第8回日展文部大臣賞受賞。労働省より技能者表彰審査員委嘱される。
1979年 紺綬褒章受章
1981年 ホテルニューオータニ鶴の間にガラスによる大装飾壁面製作
1982年 第23回毎日芸術賞受賞。第38回日本芸術院賞受
1986年 ニューヨークメトロポリタン美術館20世紀Design and Architecture部門に藤七・久利・糸子作品が永久収蔵される
1993年 最後の個展開催。日展及び資生堂現代工藝展に最終出品
1994年 1月8日永眠。68歳。

千葉県市川市にて小森邦夫のテラコッタ像、佐々木象堂の鋳銅置物。

千葉県市川市にて小森邦夫のテラコッタ裸婦像「渚」、人間国宝 佐々木象堂の鋳銅 鳥の置物などをお売りいただきました。

業者様のご紹介で、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。置物やお茶道具などをご処分されたいとのことでご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、お稽古用の茶道具、小森邦夫のテラコッタ裸婦像「渚」、人間国宝 佐々木象堂の鋳銅 鳥の置物など。当社で買取を強化している作家作品などもあり、お客様にご満足いただける査定額で買取することが出来ました。処分されようとしていたお品にもお値段が付き、お喜びいただけました。お売りいただいたお品々、大切に次へと橋渡しさせていただきます。本日はお忙しい中、当社をお呼びいただき誠に有難うございました。

小森邦夫(こもりくにお)1917~1993 昭和-平成時代の彫刻家。
大正6(1917)年6月6日、東京都浅草今戸に生まれる。赤坂高等小学校を経て日大皇道学院に学ぶ。昭和10年、構造社彫塑研究所に入り斉藤素厳(さいとうそがん)に師事。構造展に出品し、昭和15年紀元2600年奉祝展に「めぐみ」で入選して官展初入選をはたす。昭和16年第4回新文展に「断」で入選するが、のちに従軍。昭和21年春、第1回日展に「久遠」で入選し、以後同展に出品を続ける。昭和8年第9回日展に「ながれ」を出品して特選・朝倉賞受賞、同年第1回日本彫塑会展に「婦(A)」を出品して、以後同会にも出品を続ける。昭和30年第11回日展に「裸婦立像」を出品して特選。昭和31年第12回展では「若い女」で2年連続特選となり、翌32年には日展依嘱となった。同年中国平和委員会からの招待で茨城県文化人代表として約40日間中国視察旅行、中国の古代遺跡等を訪れた。昭和33年よりたびたび日展審査員をつとめ、昭和34年日展会員、昭和39年日展評議員となる。昭和55年第12回日展に「腰かけた婦」を出品して文部大臣賞受賞。昭和60年、戦後間もない昭和23年から運営委員、審査員を続けていた茨城県展に「青春譜」を出品し、この作品により昭和59年度日本芸術院賞を受賞した。昭和60年日展理事、日本彫刻会理事となる。平成元年日本芸術院会員に選ばれた。裸婦像によって抽象的概念や情趣を表現するのを得意とし、流麗なポーズ、穏やかな作風を好んだ。代表作に茨城県立運動公園に立つ「緑に舞う」、勝田市駅前「であい」、土浦市にある「湖畔に佇つ」などがある。女性をモチーフにした作品がおおい。平成5年10月22日死去。76歳。

佐々木象堂(ささきしょうどう)1882~1961 明治-昭和時代の鋳金家。
1882年新潟県佐渡生まれ。本名文蔵。1901年(明治34)同郷の初代宮田藍堂(らんどう)について蝋(ろう)型鋳造を学んだ。13年(大正2)上京し、日本美術協会展などに出品してつねに上位の賞を得、27年(昭和2)帝展出品の「鋳銀孔雀(くじゃく)香炉」、29年同展出品の「金銅鳳凰(ほうおう)置物」がともに特選となった。この間、1925年には美術工芸振興を目的とする工芸済々会に入会し、翌26年には近代意匠の樹立を目ざす无型(むけい)会の結成にも参画している。第二次世界大戦後、日本伝統工芸展へ出品した「瑞鳥(ずいちょう)」(1958)、「采花(さいか)」(1959)がいずれも最高賞を受け、60年(昭和35)重要無形文化財「蝋型鋳造」保持者(人間国宝)に認定された。1961年(昭和36)1月26日死去。78歳。作品は、題材を大胆にデフォルメした斬新な形態をみせたものが多い。

東京都中野区沼袋にて島田文雄の花生、古代七宝焼花瓶、桐たんす、反物。

 

東京都中野区沼袋にて島田文雄の彩磁椿文花生、喜八作古代七宝焼花瓶、桐箪笥、反物をお売りいただきました。

不動産業者様のご紹介で、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。島田文雄の陶器や反物などをご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、島田文雄の彩磁椿文花生、喜八作 古代七宝焼花瓶、桐箪笥、反物など。桐箪笥は、府中家具松創のもの。多少シミ汚れはありましたが、厚みあるしっかりとしたタンスです。反物は本場大島紬、牛首紬など。喜八作七宝焼花瓶は古代図で出来の良い作品。人気陶芸家 島田文雄の花生は、島田文雄の代表作である彩磁の椿文のもの。当社の買取強化中の作家作品でしたので、お客様にお喜びいただける査定額で買取することが出来ました。お引越し先に保管するスペースがなく、今回泣く泣くのご売却とのこと。査定を頑張らせていただきました。大切にされていたお品々、大事に次へと繋げさせていただきます。本日は六角堂のご指名、たくさんのお品をお売りいただき有難うございました。

島田文雄(しまだふみお)
島田文雄は、1948年に栃木県佐野市に島田隆の四男として生まれる。兄は日本画家の松本哲男。東京芸術大学美術学部工芸科陶芸を専攻し、卒業しました。1974年には、第21回日本伝統工芸展で初入選します。1975年に東京芸術大学大学院を修了し、以後、陶芸講座の非常勤講師や講座助手、講師、助教授、教授を務めます。同年「日本工芸会長賞」を初受賞し、1977年に2度目の「日本工芸会長賞」を受賞、その後も数々の賞に輝いております。1975年大学院を修了し、同大学陶芸講座非常勤講師となる。1986年に陶芸講座助手、1990年講師に、1994年助教授に、2003年教授に就任し現在に至る。1993年には、イギリスを拠点として、欧州14か国へ研修旅行に向かいます。兄は日本画家の松本哲男で、1999年に地元の佐野市文化会館にて兄弟展を開催し、話題を呼びました。招待教授として毎年、アメリカ、中国、韓国など海外各地で轆轤(ろくろ)の実技指導や釉薬の講義を行うなど、国内外において、制作に、指導に、執筆に、取材にと各方面で多忙に活動を行っております。

彩磁(さいじ)
成型素地に描画彩色し、そのあとで透明釉を掛けて本焼きします。素地は文様や絵画的装飾を効果的に見せるために白い磁器が用いられます。
彩色は顔料を混入した彩土を生素地に文様として塗り重ねる場合と、素焼きの前、または素焼きの後の素地に直接液体顔料で着色する方法があります。
宮之原謙の彩盛磁や楠部彌弌の彩埏は彩土によるもので、板谷波山や島田文雄の彩磁は液体顔料を用いてます。

埼玉県和光市にて中里重利の唐津耳付花入、桐箪笥、着物。

  

埼玉県和光市にて中里重利の唐津耳付花入、桐箪笥、着物をお売りいただきました。

お片付け業者様のご紹介で、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。桐箪笥、お着物などをご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、中里重利の唐津耳付花入、桐箪笥、着物。桐箪笥は伝統工芸品紀州箪笥で、厚みのある桐箪笥、反物は大島紬、友禅など。他にも信楽焼や備前焼など。多数ある中、中里重利の花入は当社で買取を強化している作家作品ですので、お客様にご満足いただける査定額で買取することが出来ました。大切にされていたお品々、大事に次へと繋げさせていただきます。本日は六角堂のご指名、たくさんのお品をお売りいただき有難うございました。

中里重利(なかざとしげとし)1930年12月24日 – 2015年5月12日
父は人間国宝の12代中里太郎右衛門(無庵)で、弟には「中里隆」氏がいます。
兄は、13代中里太郎右衛門。唐津焼の重鎮として高い評価を受けています。
作風としては、絵唐津向付、唐津三作茶碗さらには、茶入、朝鮮唐津の水指といった茶陶を中心に制作しています。 伝統的な家訓を守りながらも、自らでは粉引に始まり、黄唐津、青唐津の壺、さらには三島唐津など唐津焼で作る事ができるものを全般的に手掛けている注目の作家であります。それらの功績からか、様々な賞が送られております。
1944年 人間国宝である父(中里無庵)に師事。
1956年 現代日本陶芸展で松坂屋賞を受賞。
1964年 オリンピック協賛日展の入選作品・外務省買上。
1965年 日展で「三玄壷」が特選北斗賞を受賞する。
1966年 日展無鑑査となる。
1967年 日展委嘱。
1969年 日本現代工芸美術展無鑑査。
1971年 日本現代工芸美術展審査員に就任。
1973年 唐津市神田山口に「三玄窯」を築窯。独立する。
1975年 日本現代工芸美術展で会員賞、文部大臣賞を受賞。
1976年 日展審査員に就任。
1977年 日展会員。現代工芸美術家協会評議員に就任。
1980年 日本新工芸展で会員賞と楠部賞を受賞。中日国際陶芸展審査員に就任。
1981年 九州・山口陶芸展審査員に就任。
1982年 日展審査員に就任。
1985年 佐賀県芸術文化功労賞を受賞する。
1986年 日展評議員に就任。
1996年 県政功労賞を受賞する。
2002年 地域文化功労者表彰(文部科学大臣表彰)を受ける。
2015年 5月12日、腎不全のため福岡市内の病院で死去。84歳。

東京都台東区浅草にて吉田屋窯の香炉(銀火屋)、仏像、掛軸など。

 

東京都台東区浅草にて吉田屋窯の香炉(銀火屋)、仏像、掛軸などをお売りいただきました。

業者様のご紹介で、遺品整理でお呼びいただきました。お父様が生前大切にされていたという骨董品をご処分されたいとのことでご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、江戸後期吉田屋窯の香炉、仏像、掛軸など。仏像は古銅の観音菩薩、木彫りの観音菩薩、大黒天など。掛軸は酒井抱一の花鳥画など。吉田屋窯の香炉は三つ足の九谷五彩香炉。九谷五彩とは赤・黄・紺・紫・青(緑色) を使った絵付。五彩手とも呼ばれまております。火屋は銀製、草花透かし彫りで造りの良い火屋となってます。底印は二重角福銘。香炉とは香を焚く際に用いられる器で、仏具としてのイメージが強いかと思いますが、茶道においても香を焚く事から、香炉は茶道において欠かせない重要な道具の一つであります。仏具、茶道具と共に買い取りを強化している当社では、香炉は特に買取に力を入れております。今回のような時代香炉はもちろん、作家物の香炉、美しい蒔絵・螺鈿などの漆製、翡翠(ひすい)製、銀・銅などの金属製、青磁など様々な香炉を高価買取しております。お父様の大切にされていた骨董品、大切に次へと橋渡しさせていただきます。本日はお忙しい中、出張買取でお呼びいただき有難うございました。
買取先が浅草寺の側で前を通りましたが、非常事態宣言期間中ですので、人はほとんどおりませんでした。当社では一日一件のみの出張買取、車での移動、買取後はすぐに帰宅することとなっておりますので、中には入らずすぐに帰宅しました。外食を一か月近くしておりませんので、出張帰りのラーメンが恋しいです。非常事態宣言の延期が決まりましたので、落ち着いた日々が戻る日まで今しばらく我慢します。

吉田屋窯(よしだやかま)九谷焼は、明暦元年(1655)に、加賀藩の命により、有田で陶技を学んだ後藤才治郎が、江沼郡九谷村で開窯したのが始まりですが、約50年続いた後に突然廃窯してしまいます。この間に焼かれたものを、現在「古九谷」と呼んでいます。以降100年近くの間、空白の時代を迎えますが、江戸後期になり、大聖寺藩で、九谷焼再興の動きが興ります。その中心人物が、大聖寺の豪商・豊田伝右衛門。彼は文政7年(1824)、私財を投入し、九谷村の窯跡の横に登窯を築き、翌年から吉田屋(豊田家の屋号)窯を興します。古九谷の青手を再現した吉田屋窯の青手「青九谷」を生み出した窯であると評判を呼び、高い名声を受けました。芸術性や品質において古九谷に迫るものと高い評価を受けますが、七年余りの短い間で廃窯となってしまいます。この後も新たな窯が興り、九谷焼の生産が続けられます。この時代につくられたものが「再興九谷」とよばれ、現代の九谷焼へとつながっています。

埼玉県さいたま市桜区にて伊藤東彦の鉄釉草紋花瓶、桐箪笥、着物など。

埼玉県さいたま市桜区にて伊藤東彦の鉄釉草紋花瓶、桐たんす、着物などをお売りいただきました。

お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。桐箪笥、着物などをご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、伊藤東彦(いとうもとひこ)の鉄釉草紋花瓶、桐たんす、着物など。たくさんのお品をお売りいただきました。桐箪笥は伝統工芸品指定 名古屋桐箪笥、着物は本場結城紬、加賀友禅など。他にも贈答品を多数お売りいただきました。中には伊藤東彦の鉄釉草紋花瓶など、当社で買取強化中の作家作品もあり、お客様にご満足いただける査定額で全て買い取らせていただきました。大切にされていたお品々、大事に次へと繋げさせていただきます。本日は六角堂のご指名、たくさんのお品をお売りいただき有難うございました。

伊藤東彦(いとうもとひこ)1939年(昭和14年)~現在 福岡県出身。
東京芸大にて人間国宝 加藤土師萌、人間国宝 藤本能道に師事。同期に古川隆久、吉川水城。
大学院を修了後は茨城県笠間に居住し、人間国宝 、松井康成に師事。
伊藤は当初デザイナーを目指しており、作品にも顕著にその性質が現れオブジェ的、抽象的な作品を制作していたが、1973年頃より繊細な布目技法と草花などの絵付けを施した作品を展開し、さらに伊藤独特の器形により独自の芸術世界を構築している。近作においては1999年に新作トルソ陶(器で女性のボディーラインを模った作品)を発表しております。
1939年 福岡県大牟田市で生まれる。
1966年 東京芸術大学大学院陶芸専攻科を修了。
1967年 常磐窯業株式会社に嘱託として勤務。第六回日本現代工芸美術展で入選。
1968年 常磐窯業株式会社を退社。
1969年 茨城県窯業指導所研修生となる。
1970年 笠間市に窯を築く。
1973年 日本伝統工芸展で入選。伝統工芸新作展に出品。
1974年 第21回日本伝統工芸展出品作で布目芒文大皿が東京都教育委員会賞を受賞。日本工芸会正会員となる。
1975年 第2回伝統工芸武蔵野展で布目葛文大皿が奨励賞。
1984年 第31回日本伝統工芸展出品作、布目篠文大鉢が朝日新聞社賞を受賞。
1998年 茨城県議会議事堂陶壁画、春夏秋冬を制作。
1999年 紫綬褒章を受章。
2004年 日本伝統工芸展で監査委員を勤める。
2005年 今上天皇陛下貢上品を制作。