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静岡県浜松市にて田中主水の福禄寿、門井俊夫の大黒天、仏像など。

静岡県浜松市にて田中主水の福禄寿、門井俊夫の大黒天、仏像などをお売りいただきました。

旧家解体前のお片付け整理でお呼びいただきました。木彫りの仏像や置物を多数ご処分されたいとご連絡いただき、出張買取させていただきました。お売りいただきましたお品は、田中主水の福禄寿、門井俊夫の大黒天、木彫りの仏像や置物など多数。車内一杯お売りいただきました。田中主水は江戸時代後期の大阪の仏師であり、住吉大社の大工の棟梁でもあります。お売りいただいた作品は極彩色の木彫り福禄寿。細部にまで精密に彫刻、彩色されており、大変素晴らしい田中主水作品であります。門井俊夫は周防大島の宮大工の家系に生まれ、彫刻界の巨匠平櫛田中(ひらくしでんちゅう)に師事します。その後彫刻家、仏師として仏像や木彫りなど数々の作品を残されました。お売りいただいた作品は、木彫りの大古久天(大黒天)。残念ながらお顔や台座にひび割れがございましたが、大振りの作品で大変造りの良い大黒様でした。他にも不動明王、観音菩薩、千手観音像などたくさんの仏像をお売りいただきました。遠方の出張買取でしたが、お客様にお喜びいただけて良かったです。お売りいただきました作品の数々、大切に次へと橋渡しさせていただきます。本日は六角堂をご指名くださり、誠に有難うございました。
帰宅時に新東名の浜松SAで静岡おでんを食べました。京都へ出張する際にはいつも寄らせていただいてます。味噌、けずり粉、青のりを振り掛けて食べる静岡おでんはとても美味しいです。

門井俊夫(かどいとしお) 1917~1986年
社寺彫刻を生業としていた門井鳳雲の長男として周防大島町(旧東和町)に生まれる。少年期に光市上島田に移り住む。木彫界の巨匠平櫛田中に師事し、日展入選21回を数え、同会友となる。日本彫刻会無鑑査会員でもあり、日彫賞を4回受賞する。「弘法大師像」(室積象鼻ヶ岬)、文化センター外壁レリーフなどがある。紺綬褒章受章。

東京都渋谷区代々木にて奥村土牛、木村圭吾のリトグラフ、茶の木人形など。

東京都渋谷区代々木にて奥村土牛、木村圭吾のリトグラフ、茶の木人形などをお売りいただきました。

本日は一件の見積もり、一件の出張買取させていただきました。一件目は新宿区四谷三栄町へ、お着物や煎茶道具の見積もり。作家物のお着物や煎茶道具を一式見積りさせていただき、ご処分が決まり次第お呼びいただくこととなりました。またお呼びいただける日を楽しみにお待ちしております。二件目は渋谷区代々木へ、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。お売りいただいたお品は、奥村土牛のリトグラフ「春の富士」、木村圭吾のリトグラフ「富嶽赤映」、日本画、掛け軸、こけし、茶の木人形など。たくさんのお品をお売りいただきました。静岡県ご出身のお客様で、富士山を描かれた日本画や掛け軸が多くございました。奥村土牛、木村圭吾の作品はリトグラフでしたが、当社で買い取りを強化している人気作家作品ですのでお客様のご満足いただける査定額で買い取りさせていただきました。こけしの他にお売りいただきました「茶の木人形」とは、江戸時代後期、茶師上林清泉(1801~70年)により宇治の地で創始された茶摘み姿の女性の根付人形のことをいいます。宇治の地で作られたため、宇治人形とも呼びます。茶の木は、しっかりと根を下ろす強い生命力があり、新芽も次々と出てくる事から無病息災や子宝にも恵まれ、人の縁もしっかり結ぶ縁起物として、皇室や大名家にも愛されました。茶の木は太いものではなく、堅い木ですが、それを滑らかに削って美しい彩色をするということで価値がございます。お売りいただいた茶の木人形は江戸後期頃の作で、底部に焼印がございます。彩色も残っており、良い状態のお人形でしたので、こちらもお客様にご満足いただける査定額で買取することができました。本日はお忙しい中、六角堂をご指名くださり誠に有難うございました。
本日の昼食は、四谷三栄町にある「徒歩徒歩亭」さんへ行きました。雲吞が有名なお店ですので、迷わず雲吞麺を注文しました。肉厚の雲吞にしっかりとした濃厚スープ、とても美味しかったです。

奥村土牛(おくむらどぎゅう)1889~1990年
1889年 東京の京橋に生まれる。本名は義三。
1905年 梶田半古の門に入り、塾頭の小林古径に師事。
1907年 東京勧業博覧会に「敦盛」を出品し入選。
1911年 約5年間、逓信省貯金局統計課に勤務してポスターなどを描く。
1920年 あらためて小林古径の画室で指導を受ける。
1923年 中央美術社第5回展で「家」が中央美術賞受賞。
1927年 第14回院展に「胡瓜畑」を出品し初入選。
1929年 第16回院展に「蓮池」を出品、日本美術院院友に推挙される。
1932年 日本美術院同人に推挙される。
1935年 帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)日本画科教授に就任。
1936年 第1回帝展で「鴨」が推奨第1位。
1947年 帝国芸術院会員となる。
1959年 日本美術院理事となる。
1962年 文化勲章受章。文化功労者に顕彰される。
1978年 日本美術院理事長に就任。
1990年 死去。享年101歳。

木村圭吾(きむらけいご)1944年~
1944年 京都府生まれ。
1974年 シェル美術賞展佳作受賞。
1987年 滋賀県立近代美術館で個展。(以後多数個展)
1991年 静岡県駿河平に画室を構える。
1993年 両洋の眼展出品。(以降毎年)
1996年 倉吉博物館菅楯彦大賞展市民賞。
1999年 増上寺天井絵奉納。NHK大河ドラマ「元禄繚乱」装画担当。
2001年 法楽寺障壁画完成。
2003年 静岡県「クレマチスの丘」に木村圭吾さくら美術館開館。(2008年閉館)
2006年 カンヌ市・静岡市姉妹都市15周年記念特別展。
2009年 木村圭吾アートホール完成。
2016年 名古屋・京都にて画業50周年記念展。
2018年 平野美術館創立30周年記念展。

群馬県邑楽町にて小暮真望 、倉島重友、谷内六郎、いわさきちひろの版画。

群馬県邑楽郡邑楽町にて小暮真望 、倉島重友、谷内六郎、いわさきちひろの版画をお売りいただきました。

一年ほど前より絵画を整理しようかご相談をいただいており、本日出張買取させていただくこととなりました。お売りいただいたお品は、小暮真望のシルクスクリーン「春華 北アルプス五竜岳」、「谷川岳」、「田代池の四季(夏)」、倉島重友のリトグラフ「萌ゆる春」、いわさきちひろのリトグラフ「神戸原の山羊」、谷内六郎のリトグラフ「ふるさとの詩 おいしい宿題」、木版画「みなと・かもめ」、関口コオのリトグラフなど。たくさんの絵画をお売りいただきました。数点シミやヤケのある作品がございましたが、一点一点丁寧に査定し、全て買い取らせていただきました。大切にされていた絵画を泣く泣くのご処分、大切に次へと橋渡しさせていただきます。本日は六角堂をご指名いただき、有難うございました。
画像は邑楽町にある多々良沼。冬には白鳥が飛来することで有名な沼です。もうじき桜が咲くと賑やかになるようです。帰りに「かつ太郎 邑楽店」さんで食事をしました。とんかつに二十一穀米、とても美味しかったです。

小暮真望(こぐれしんぼう)1948年~
1948年 群馬県館林市に生まれる。
1966年 館林高校卒業。
1972年 明治大学大学院工学部修了。㈱本田技術研究所に入社。
1982年 ㈱本田技術研究所を退社。「セリグラフ美術研究所」を設立。

倉島重友(くらしましげとも)1944年~
1944 長野県に生まれる。
1971 東京芸術大学大学院修了。再興第56回院展で初入選したのち平山郁夫に師事。
1974 高松塚古墳壁画模写に参加。
1982 東京セントラル美術館日本画大賞展大賞。
2001 院展日本美術院賞。
2004 院展同人になる。

谷内六郎(たにうちろくろう)1921年~1981年
1921 東京・恵比寿で9人兄弟の6男として生まれる。
1933 旭尋常小学校卒業。世田谷・上馬に転居。
1935 駒沢尋常高等小学校卒 『キング』『少年倶楽部』などに度々入選する。
1937 『市電文化ニュース』に3コマ漫画「コドモノページ」「回覧板風景」などを掲載。
1944 防空凧などの取り扱い解説の漫画絵や、兵器類の図案描きを担当。
1946 『民報』紙に4コマ漫画「真実一郎君」を連載。
1947 『働く婦人』に漫画「ハタラク里子ちゃん」連載。
1948 『働く婦人』に漫画「ひよちゃん日記」を連載。
1955 第1回文藝春秋漫画賞を受賞、『谷内六郎画集』を刊行。
1956 『週刊新潮』創刊と同時に表紙絵を担当。
1965 東京池袋・西武百貨店で『週刊新潮』500号記念展覧会を開催。
1981 死去。享年59歳。

いわさきちひろ1918年~1974年
1918年に福井県で生まれる。14歳で岡田三郎助にデッサンや油絵の基礎を学びました。美術学校への進学は諦め、洋裁学校に入学し、同時に小田周洋に師事し書を学びます。1939年に婿養子を迎え満州大連に渡りますが、翌年には死別して帰国。再び絵を学ぶために中谷泰に師事します。長野で終戦を迎えますが、共産党への入党を機に上京し丸山俊に師事してデッサンの研鑽を積みました。1950年松本善明と再婚し一子を得て、画家として多くの作品を手掛けます。1960年の油彩作品『子ども』を最後に水彩画に絞り、絵本作家として邁進しました。1974年肝臓がんにより55歳で永眠。1977年に自宅兼アトリエ跡にいわさきちひろ絵本美術館(現ちひろ美術館 東京)を開館。2001年には安曇野ちひろ美術館が開館しました。

東京都立川市にて岩谷堂箪笥、十四代柿右衛門の珈琲碗、贈答品など。

東京都立川市にて岩谷堂箪笥、十四代柿右衛門の珈琲碗、贈答品などをお売りいただきました。

お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。和箪笥をご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は岩手県の民芸家具「岩谷堂箪笥」の整理箪笥と小箪笥、十四代酒井田柿右衛門の錦花鳥文珈琲碗、深川製磁や香蘭社などの贈答品。岩谷堂箪笥は縦長総抽斗の整理箪笥と船金庫のような形をした小箪笥の二点。多少のヤケがあるものの、目立つダメージなく全体的に状態の良いたんすであります。一人の職人が木取りから一貫して行う木地造り。欅の木目を美しく引き出す漆、南部鉄の豪華な金具が特徴の岩谷堂箪笥。堅牢さと重厚さの中にも、華麗な繊細さを秘めた岩谷堂箪笥は現代の住空間の中でも、強烈な存在感を保っています。岩谷堂箪笥の他、贈答品もご処分されたいとのことで、併せて買取させていただきました。当社で買い取りを強化している十四代柿右衛門窯のお品などもあり、お客様にご満足いただける査定額で買い取りさせていただくことが出来ました。本日はお忙しい中、六角堂をご指名いただき有難うございました。

十四代 酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)
1934年佐賀県有田町に生まれる。
1958年多摩美術大学日本画科卒業。
作陶技術を十二代、十三代柿右衛門に師事。
十四代を襲名するまで「酒井田 正」として各公募展への出品、個展等を行う。
1982年十四代柿右衛門を襲名。
2001年国指定重要無形文化財「色絵磁器」保持者(人間国宝)に認定される。
2005年旭日中綬章受章
2006年有田名誉町民の称号を受ける
2007年西日本文化賞受賞
2013年6月15日逝去(享年78)

東京都目黒区南にて八島正明、堀田高の油彩画、反物など。

東京都目黒区南にて八島正明、堀田高の油彩画、反物などをお売りいただきました。

業者様のご紹介で、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。お引越し先が狭くなるので絵画や反物などをご処分されたいとご連絡いただき、出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は八島正明の油彩画「夏の日」三点、「水筒と花梨」、堀田高の油彩画「白いテーブル」、「白い塔」、大島紬や結城紬の反物数点。八島正明は広島で原爆の熱線によって刻まれた石段の影を見たことや、幼くして妹を亡くした経験などにより、「影」への関心を高め制作に取り組んできました。作品はキャンバスに白い油絵具で地塗りを施し、その上に黒い油絵具を重ねたものが土台となっております。木綿針で画面を引っ掻き、白くしたい部分を削ると、独自のモノクロームの静寂な世界が出現します。「夏の日」の兄妹は幼くして失った妹を思い描いた作品なのかもしれません。手をつなぎ歩く姿がとても良いです。堀田高は一枚の絵の人気画家。印象派の巨匠・ルノワールが晩年を過ごした町であるカーニュで創作活動をしました。ルノワールが住んでいた近くにアトリエを構え、周辺の風景や花を中心に作品を発表。2009年に帰国し「空間が広くて遠望が良いカーニュの景色に似ている」という理由から真鶴町へ移りました。90年にニース・リビエラ絵画・彫刻アカデミー主催の「秀作美術展」でグランプリを受賞しました。お売りいただいた作品は南仏カーニュの風景画。堀田高らしい素晴らしい作品であります。いずれもタトウ箱があり、作品状態も良好。お客様にご満足いただける査定額で買取することが出来ました。お引越しで泣く泣くのご処分とのこと、大切に次へと橋渡しさせていただきます。お忙しい中、六角堂をご指名くださり有難うございました。

八島正明(やしままさあき)1936年~
1936年 三重県いなべ市に生まれる。
1939年 名古屋市に転居する。
1944年 郷里へ疎開する。
1959年 三重大学学芸学部卒業。
1961年 第21回美術文化展に初入選。*以後出品を重ねる。65年会員、2001年退会。
1965年 第25回美術文化展で美術文化賞受賞。
1966年 個展(納屋橋画廊, 名古屋)。
1967年 第11回シェル美術賞展で佳作賞受賞。*70年第14回展、74年第18回展で同賞受賞。
1969年 第4回ジャパン・アート・フェスティバル(パリ)。
1974年 第9回ジャパン・アート・フェスティバル(モントリオール)。第18回安井賞展で安井賞受賞。
1977年 第8回国際青年美術家展。第13回現代日本美術展。
1978年 第12回日本国際美術展。
1979年 第1回明日への具象展。*82年第4回展まで出品。
1980年 現代日本のマニエリスム展。
1985年 第1回具象絵画ビエンナーレ。*89年第3回展も出品。
1987年 個展(西武アート・フォーラム)。
1996年 大阪国際トリエンナーレ。第3回小磯良平大賞展(神戸市立小磯記念美術館)で佳作賞受賞。
2005年 個展(伊勢現代美術館)。
2008年 「版」の誘惑展(名古屋市美術館)。
2009年 幻想と抽象展(岡崎市美術館)。
2010年 針生一郎が選んだ愛知60年代の現代美術展(堀美術館)。

堀田高(ほったたかし)1934年~
1934年、京都で生まれる。武蔵野美術大学卒業。
1970年渡仏し、南仏カーニュで40年創作活動をする。
1990年にニース・リビエラ絵画・彫刻アカデミー主催「秀作美術展」でグランプリ受賞。
2009年に帰国し、2014年真鶴に堀田高洋画館開設。
現展会員、努力賞など他多数受賞。東京・パリ・ニースにて個展を開催。

東京都港区高輪にて富本憲吉の鉄描皿、作家物の陶器、着物、反物。

東京都港区高輪にて富本憲吉の鉄描皿、作家物の陶器、着物、反物をお売りいただきました。

業者様のご紹介で、お荷物のお片付け整理でお呼びいただきました。お着物や陶器をご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は人間国宝 富本憲吉の鉄描皿二点、近藤悠三の花瓶など作家物の陶器、訪問着や大島紬などの反物。当社の得意とするお品ばかりでございました。富本憲吉が制作された作品の場合、底部や高台内の描き銘(サイン)の違いを見分ける事でその作品が制作された年代を特定することができます。描き銘から本作品は氏の初期作品であることがわかります。一点は高台内に描き銘「憲」、安田茂郎識箱に納められております。もう一点は高台内に描き銘「富」、伊藤竹香堂の額にて額装されております。前作ではありますが、どちらも状態の良い作品でしたので、お客様にご満足いただける査定額で買い取らせていただきました。素晴らしい作品をお譲りいただき、誠に有難うございました。

富本憲吉(とみもとけんきち)1886(明治19)-1963(昭和38)
1886年 奈良県生駒郡安堵町に生まれ。幼少より絵を学ぶ
1908年 大学卒業前にロンドンへ私費留学。(留学中に卒業)
1911年 ロンドンから帰国。来日していたバーナード・リーチと出会い、交友を深めてゆく
1913年 故郷の裏庭に簡単な窯を作り、楽焼作りを始める
1926年 奈良から世田谷に住まいを移し、窯を築く。(以降を東京時代ともいう)
1944年 東京美術学校教授になる
1946年 美術学校および芸術院会員を辞し、家族とも別れ、京都へ移る。
1949年 京都市立美術大学教授
1955年 重要無形文化財技術指定保持者(人間国宝)に認定される。
1961年 文化勲章受章
1963年 死去

埼玉県さいたま市北区にて岩谷堂箪笥、志木市にて竹久夢二の版画。

 

埼玉県さいたま市北区にて岩谷堂箪笥、志木市にて桐箪笥、竹久夢二の木版画「黒船屋」をお売りいただきました。

本日は二件の出張買取。一件目は埼玉県さいたま市北区へ岩谷堂箪笥、民芸家具の出張買取でお伺いしました。昨日岩谷堂箪笥(和箪笥)の買取をさせていただきましたが、追加の箪笥がございましたので本日も出張させていただきました。お売りいただいたお品は、岩手県の伝統工芸品、岩谷堂箪笥の和箪笥(衣装箪笥)、書棚、民芸家具の箪笥。岩谷堂箪笥特有の色ヤケやアタリ傷などございましたが、当社で買取強化中のタンスになりますので、全て買い取らせていただきました。搬出をお手伝いいただき有難うございました。二件目は志木市へ、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。お売りいただいたお品は竹久夢二の木版画「黒船屋」、工芸の掛け軸、桐たんすなど。竹久夢二は大正浪漫を代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれております。数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人画」などと呼ばれております。黒船屋は夢二の代表作であり、今なお人気がございます。多少ヤケなどございましたが当社の査定にご満足いただき、買取させていただきました。他にも掛け軸、桐箪笥とたくさんのお品をお売りいただきました。本日は六角堂をご指名いただき、有難うございました。

竹久夢二(たけひさゆめじ)明治17年(1884年)~ 昭和9年(1934年)
1884年 岡山県の酒屋に生まれる。
1899年 早稲田実業学校に入学。
1905年 在学中に「中学世界」のコマ絵「筒井筒」が一等入選。
1906年 学校を中退し童話雑誌「少年文庫」の挿絵を描く。
1907年 岸たまきと結婚。翌年長男・虹之助が誕生する。
1910年 絵葉書「月刊夢二カード」第一集発行。
1912年 雑誌「少女」に「宵待草」発表。
1914年 雑誌「子供之友」「新少女」(婦人之友社)に挿絵を描き始める。
1918年 京都府立図書館で個展を開く。菊富士ホテルにて「黒船屋」を制作する。
1931年 アメリカへ出航。展覧会など行う。その後欧州へ渡る。
1933年 滞欧中に病気が悪化して帰国。
1934年 信州富士見高原療養所へ入院。当地にて永眠。享年50歳。