東京都中野区弥生町にて三味線、琴、司馬江漢や与謝蕪村などの掛け軸をお売りいただきました。
司馬江漢(しばこうかん)1747~1818
江戸時代後期の絵師、蘭学者。
本名は安藤峻。俗称は勝三郎、後に孫太夫。
字は君嶽、君岡、司馬氏を称し、号は春波楼、桃言、無言道人、西洋道人とする。
なお、浮世絵師の鈴木春重は同一人物。
1747年、江戸に生まれる。狩野古信を師とし、浮世絵は鈴木春信に学び、のち写生体の漢画、美人画を描く。さらに南蘋派を宋紫石から学んだのち、平賀源内や大槻玄沢ら学者との交わりから、西洋画に興味を持つ。1783年の日本初の腐触銅版画「三固景図>」や油彩画「異国風景人物図」など、日本の風景や異国の風俗を題材にした銅版画や油彩画を制作した。絵画のほか、世界地理や天文に関する著書や随筆も残している。
与謝蕪村(よさぶそん)1716~1784
本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数の名を持つ。
与謝蕪村は松尾芭蕉・小林一茶と並び江戸時代における三大俳人に選ばれている俳人です。摂津国(現大阪府)で生まれ1736年頃に江戸に下り俳諧を学びます。1743年、俳諧の師が亡くなり下総国(現茨城県)に住みますが、松尾芭蕉の各地を回る行脚生活に憧れて、自身も僧の姿に身を変え東北地方周遊しました。宿代の代わりに絵を置いていく与謝蕪村の修行の旅が始まりました。京都に居を構え、結婚し娘を授かりますが、妻と娘を残し隠岐に赴き多くの作品を残しています。後に京都に戻り生涯を京都で過ごしました。与謝蕪村の功績として挙げられるのが俳画です。俳句に絵を入れたもので、与謝蕪村が確立した独自のジャンルになります。有名なものですと「奥の細道図巻」があります。これは松尾芭蕉の奥の細道を書き写し、そこに挿絵を入れた作品です、こちらは重要文化財に認定されております。画家としての活躍も素晴らしく1771年に池大雅と合作した文人画「十便十宜帖」は重要文化財に指定されています。