カテゴリー別アーカイブ: 彫刻・ブロンズ像

神奈川県小田原市より、平野千里の福寿七福神の宅配買取。

神奈川県小田原市より、平野千里の福寿七福神の宅配買取させていただきました。

平野千里の七福神をご売却されたいとお問い合わせいただき、宅配にて買取させていただきました。当社から少々距離があり、お品も一点のみでしたので、郵送していただき買取させていただきました。お売りいただいたお品は、彫刻家 平野千里の福寿七福神。平野千里は日本近代木彫界の巨匠「平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)」の彩色を担当していた彩色木彫の第一人者・「平野富山(ひらのふざん)」の次男として生まれました。20 歳でイタリアへ留学し、西洋彫刻の技術を学んだ後、帰国。帰国後は父、平野富山に極彩色の教えを受け、日本の伝統技術である極彩色技術を今に伝える唯一の彫刻家であります。お売りいただいた「福寿七福神」は小振りの作品ではあるものの、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、恵比寿天(えびすてん)、寿老人(じゅろうじん)、福禄寿(ふくろくじゅ)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそん)、いずれも平野千里の見事な極彩色が施された素晴らしい作品であります。シミの出てしまっている七福神もございましたが、当社で買い取りを強化している作家作品ですので精一杯の査定額で買い取らせていただきました。大切にされていた作品、当社で責任持って次へと橋渡しさせていただきます。お問い合わせ時からお取引終了までお付き合い下さり、誠に有難うございました。

平野千里(ひらのせんり)
1948年 東京で彩色木彫の第一人者である父・平野富山の次男に生まれる
1966年 都立小石川高等学校卒業。ローマ・アカデミア美術学校彫刻科入学。ペリクレ・ファツィーニに師事する。
1972年 ローマ・アカデミア美術学校彫刻科卒業。
1988年 日本へ帰国し、父・富山に師事。
1989年 父・平野富山逝去。第21回日展初入選。
1990年 第20回日彫展入選。第22回日展入選。第86回大平洋展で大平洋美術会賞受賞。
1991年 大平洋美術会会友となる。第21回日彫展奨励賞受賞。第23回日展入選。
1992年 第22回日彫展奨励賞受賞。
1993年 第23回日彫展日彫賞受賞。大平洋美術会会員となる。
1996年 日彫会を退会し、彩色木彫に専念する。
1998年 平野富山、千里親子展開催。第94回大平洋展にて、文部大臣奨励賞と会員秀作賞受賞。
2001年 写真家西宮正明氏による写真集「極彩」出版。以後、全国百貨店にて毎年、個展を開催。

東京都中野区にて橋本朝秀の木彫、加藤卓男の酒杯、世田谷区にて着物、煎茶道具など。

東京都中野区白鷺にて橋本朝秀の木彫彫刻「鷺」、加藤卓男の三彩酒杯、世田谷区代田にてお着物、錫製の茶器揃など煎茶道具、唐木の違い棚などをお売りいただきました。

本日は二件の出張買取。一件目は東京都中野区白鷺で、お引越し前のお荷物のお片付け整理でお呼びいただきました。置物や骨董品をご処分されたいとご連絡いただき、出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、橋本朝秀の木彫彫刻「鷺」、加藤卓男の正倉院復元三彩花形酒杯、木彫の仏像やブロンズなど。たくさんのお品がございましたが、一点一点丁寧に査定させていただきました。当社で買い取りを強化している作家作品もあり、お客様にご満足いただける査定額で買取することが出来ました。共箱などの付属品も揃っており、状態も良かったので、高価査定となりました。お父様が大切にされていたお品々、大切に次へと橋渡しさせていただきます。二件目は世田谷区代田へ、お片付け整理でお呼びいただきました。お売りいただいたお品は、お着物、煎茶道具、唐木違い棚、ブランドバッグなど。お着物や煎茶道具など数多くございましたが、一点一点丁寧に査定し、全て買い取らせていただきました。お売りいただきましたお品、大切に次へと繋げさせていただきます。本日はお忙しい中、六角堂をご指名くださり誠に有難うございました。

橋本朝秀(はしもとちょうしゅう)1899年~1960年
大正・昭和期の彫刻家
1899年、福島県安達郡二本松町で彫刻家 橋本重治の四男として生まれる。本名橋本 秀次
1919年上京し山崎朝雲の元で1928年まで木彫を学ぶ。同時期に本郷絵画研究所でデッサンを学ぶ。
1925年、第6回帝展(現日展)に出品した「幻想」が初入選。以後1929年の第10回帝展まで5回連続入選。
1930年、第11回「法悦」が特選受賞。1931年、第12回「悉地」も2年連続の特選受賞、以後無鑑査となる。
帝展出品を続ける傍ら、1929年に仏教美術研究のためインドに6カ月滞在したほか、1941年夏より蒙疆大同石仏研究のため中国へ渡っている。中国研究の帰路には満州、朝鮮を経由し朝鮮仏像を研究して帰国する。
1943年、第6回新文展(現日展)にて審査員に推挙され、以後1949年第5回日展、1951年第7回日展、1953年第9回日展と審査員を務める。1948年日展に「飛天」(政府買上げ)を出品。1950日展参事となり、1954年日展出品作「華厳」で翌30年日本芸術院賞を受賞。
官展以外でも日本美術協会、東邦彫塑院、日本彫塑家倶楽部に参加。日本彫塑家倶楽部は1956年に副委員長に就任。
1960年1月31日死去。60歳。

加藤 卓男(かとう たくお)1917年~2005年
1917年 岐阜県多治見市に生まれる。家は江戸時代から続く窯元幸兵衛
1935年 多治見工業学校を卒業する
1954年 第10回日展に入選
1961年 フィンランド政府の招聘で、フィンランド工芸美術学校へ留学
1963年 第6回新日展で特選・北斗賞受賞
1964年 「美濃陶芸協会」設立、初代会長に就任。岐阜県芸術文化顕彰受賞
1965年 第8回新日展にて北斗賞受賞
1976年 東京大学イラン・イラク遺跡発掘調査団に参加
1980年 イラク文化省よりバクダッド大学に客員教授として招聘を受ける
1983年 多治見市無形文化財保持者認定、同岐阜県重要無形文化財保持者認定
1988年 紫綬褒章受章
1989年 正倉院に二彩鉢の復元作品を納める
1991年 美濃陶芸協会名誉会長となる
1995年 重要無形文化財「三彩」保持者認定
1996年 岐阜県名誉県民となる
2005年 1月11日死去

静岡県田方郡函南町にて平田郷陽の衣装人形「饅頭喰」。

静岡県田方郡函南町にて平田郷陽の人形「饅頭喰」をお売りいただきました。

平田郷陽のお人形をご売却されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。当社がお伺いする前に他社が査定をされておりましたが、精一杯の査定の上、当社にお売りいただくこととなりました。お売りいただいた作品は、人間国宝である平田郷陽の衣装人形「饅頭喰」。当社で最も買い取りを強化しているお人形の作家作品であります。平田郷陽の作る人形は「生き人形」とまでいわれ、中でもこの度お売りいただいた子どもの無邪気なしぐさの一瞬をとらえた作品は平田郷陽の代表作となっております。愛好家が多く、一生のうち郷陽の作品を一度は持ちたいという熱意を持っているファンが多い昭和を代表する人形作家です。1955年には、人形界初の国指定重要無形文化財(人間国宝)に認定されており、木目込みの技法を用いた衣裳人形を多数手掛けています。残念ながら饅頭を持つ手の指の破損、欠品などございましたが、共箱もあり指の欠損以外は全体的に状態も良かったので、お客様にご納得いただける査定額で買い取りすることが出来ました。お父様からいただいたという思い出のお人形、責任もって次へと繋げさせていただきます。まだまだ骨董品がたくさんあり、近日またお呼びいただけるとのこと、楽しみにお待ちしております。平田郷陽作品の買取業者が多数ある中、六角堂をご指名くださり誠に有難うございました。
帰りに沼津港にある丸天さんへ寄り、海鮮丼をいただきました。わたしの大好きなお店であり、近くへ出張した際には寄らせていただいております。かき揚げで有名なお店ですが、海鮮丼もとても美味しいです。また寄らせていただきます。

平田郷陽(ひらたごうよう)1903年(明治36)~1981年(昭和56)
1903年 松本喜三郎・安本亀八 系統の活き人形師であった初代平田郷陽(恒次郎)の長男として、東京浅草に生まれる。
1917年 14歳の時、父のもとで人形製作の修行を始める。
1924年 父の跡を継ぎ二代卿陽を襲名。
1927年 市松人形を製作。
1928年 岡本玉水・久保佐四郎・名川春山・吉田永光らとともに、創作人形の研究団体「白沢会」を結成する。
1935年 日本人形社を立ち上げる。
1936年 第1回帝国美術院展に初入選。
1937年 パリ万国博覧会に出品し、金賞受賞。
1955年 重要無形文化財「衣裳人形」保持者(人間国宝)に認定される。
1959年 皇后宮殿に「瑞鳥」製作。
1968年 紫綬褒章を受賞。
1974年 勲四等瑞宝章を受賞。
1981年 逝去。享年77歳。

秋田県能代市より木村渡雲の薄端、龍の置物、千葉県市川市にて中島千波の画集。

秋田県能代市より木村渡雲の薄端、龍の置物、千葉県市川市にて中島千波の画集をお売りいただきました。

本日は一件の宅配買取、一件の出張買取。一件目は秋田県能代市より花器の宅配買取。遠州流の茶道、華道を教えていらしゃった曽祖父様が使用されていた花器をご売却されたいとご連絡を頂き、宅配買取にてお売りいただきました。お売りいただいたお品は、木村渡雲(二代 村田整珉)の銅製 細密龍彫刻薄端、古銅龍の置物。いずれも龍の細密彫刻が大変素晴らしく、保管状態も良かったので、お客様にご納得いただける査定額で買い取りさせていただきました。曽祖父様が大切にされ、ご家族の思い出のお品、当社で責任持って次へと橋渡しさせていただきます。最初にメールをいただいた時から、宅配買取終了時まで丁寧にお取引していただき、誠に有難うございました。二件目は千葉県市川市へ絵画の出張買取。絵画をご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、外国人画家のリトグラフ数点、中島千波の画集「花物語」。花物語は日本経済新聞社から出版され、中島千波の代表する花の絵画をセットにしたオフセット画集になります。全て保管状態が良く、お客様にご満足いただける査定額で買取させていただきました。絵画のご処分に六角堂をご指名くださり、有難うございました。

村田整珉(むらたせいみん)1761~1837年 江戸時代後期の鋳金家。
宝暦11年8月13日生まれ。江戸の人。田川珉武の門人。蝋型(ろうがた)鋳造の名手で,置物,花瓶,仏具などをつくった。初代整珉(1761年8月13日 生まれ、1837年11月24日 没)の後は、子供が幼かった為、養子で弟子の木村渡雲(岩手県出身)が二代目整珉となり、後に、初代の実子(仙次郎)が三代目整珉となっています。天保(てんぽう)8年11月24日死去。77歳。本姓は木村。通称は総次郎。別号に北玉叟。

中島千波(なかじまちなみ)1945年~
1945年 日本画家・中島清之の三男として疎開先の⻑野県小布に⽣まれる
1969年 東京藝術⼤学⽇本画科を卒業。第54 回院展へ初出品した「窓」が⼊選
1971年 東京藝術⼤学⼤学院を修了
1979年 第5 回⼭種美術館賞で、優秀賞を受賞
1984年 第1回横の会結成に参加(以後1993年の第10回最終展まで参加)
1987年 NHK テレビ「きょうの料理」のテキスト表紙絵を担当。以降、3 年間⼿掛ける
1990年 三溪園臨春閣第六室襖絵「不⼆と桃花図」「松林図」が完成
1992年 「おぶせミュージアム・中島千波館」が開館
1994年 東京藝術⼤学美術学部助教授に就任
1995年 歌舞伎座緞帳「淡紅⽩梅」が完成
2000年 東京藝術⼤学美術学部デザイン科教授に就任
2006年 ⼩布施名誉町⺠に選出される

埼玉県行田市にて木内禮智や岳南のブロンズ像、着物、反物など。

埼玉県行田市にて木内禮智や岳南のブロンズ像、着物、反物などをお売りいただきました。

不動産業者様のご紹介で、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。お引越しに伴い、お母様のお着物や反物、ブロンズ像や置物などをご処分されたいとご連絡いただき、出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、木内禮智や岳南のブロンズ像、訪問着や大島紬の反物など。たくさんのお品をお売りいただきました。彫刻家木内禮智のブロンズ像は「馬」、「躍進」の二点。共に1982年の作品で共箱あり。大変状態良い作品であります。岳南のブロンズ像は横たわる裸婦で共箱はありません。少々傷みがございましたが、大変造りの良い作品、お客様にご満足いただける査定額で買取させていただきました。馬や裸婦のブロンズ像は、人気がありますので高額査定となることが多いです。本日は素晴らしい作品をお売りいただき、有難うございました。
帰路、行田市にある「松栄庵」さんで食事をしました。和風だしの効いた昔ながらのカレーそばがとても美味しかったです。また寄りたいと思います。

木内禮智(きうちれいち)
1931年 4月 東京都で生まれる。
1955年11月 日展初入選。
1956年 3月 東京芸術大学美術学部彫刻科卒業。
1961年 4月 仏国政府給費留学。パリ国立美術学校彫刻科入学。
1964年 8月 帰国。
1965年11月 日展特選。
1966年11月 日展特選。
1967年 4月 東京家政大学助教授就任。
1971年 4月 日彫大賞受賞。
1973年11月 日展審査員。
1974年 4月 日展会員。
1980年 4月 東京家政大学教授就任。
1983年 4月 日彫展西望賞受賞。
1990年 4月 日展評議員就任。
2002年 4月 東京家政大学名誉教授就任。

東京都新宿区北新宿にて平野千里の木彫、伊藤國男のブロンズ、着物など。

  

東京都新宿区北新宿にて平野千里の木彫「七福神弁財天」、伊藤國男のブロンズ「馬」、着物や反物などをお売りいただきました。

業者様のご紹介で、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。お人形など彫刻やお着物をご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は平野千里の木彫「七福神弁財天」、伊藤國男のブロンズ「馬」、着物や反物など。平野千里は日本近代木彫界の巨匠「平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)」の彩色を担当していた彩色木彫の第一人者・「平野富山(ひらのふざん)」の次男として生まれる。20 歳でイタリアへ留学し、西洋彫刻の技術を学んだ後、帰国。帰国後は父、平野富山に極彩色の教えを受け、日本の伝統技術である極彩色技術を今に伝える唯一の彫刻家であります。お品は芸能の神様、七福神紅一点の女神の弁財天。気品あるお顔、平野千里の彩色の華麗さが漂う弁財天です。残念ながら底にシミが出てしまっておりましたが、当社で買取強化中の作家作品ですので、お客様にご満足いただける査定額で買い取らせていただきました。伊藤國男のブロンズ像はまるで生きているかのような表情でとても精巧に造られております。さすが生涯全てを馬像制作に捧げたといわれる作家の作品でございます。当社で良く扱う作家作品ですが、こちらは幅約50cmと大振りの作品でなんとも迫力がございます。お着物は訪問着や帯など。証紙付きのものや作家物の着物が多く、高価査定で買取することが出来ました。お売りいただいたお品々、大切に次へと橋渡しさせていただきます。良い彫刻作品、お着物をお売りいただき有難うございました。

平野千里(ひらのせんり)
1948年 東京で彩色木彫の第一人者である父・平野富山の次男に生まれる
1966年 都立小石川高等学校卒業。ローマ・アカデミア美術学校彫刻科入学。ペリクレ・ファツィーニに師事する。
1972年 ローマ・アカデミア美術学校彫刻科卒業。
1988年 日本へ帰国し、父・富山に師事。
1989年 父・平野富山逝去。第21回日展初入選。
1990年 第20回日彫展入選。第22回日展入選。第86回大平洋展で大平洋美術会賞受賞。
1991年 大平洋美術会会友となる。第21回日彫展奨励賞受賞。第23回日展入選。
1992年 第22回日彫展奨励賞受賞。
1993年 第23回日彫展日彫賞受賞。大平洋美術会会員となる。
1996年 日彫会を退会し、彩色木彫に専念する。
1998年 平野富山、千里親子展開催。第94回大平洋展にて、文部大臣奨励賞と会員秀作賞受賞。
2001年 写真家西宮正明氏による写真集「極彩」出版。以後、全国百貨店にて毎年、個展を開催。

伊藤國男(いとうくにお)
1890年に岩手県生まれの彫刻家。10人兄弟で家計を助けるためにある彫刻家の内弟子となり、その頃に馬と関ったことがきっかけで馬像を彫るようになりました。騎兵学校や御料牧場を訪ねては馬像の制作に励み、やがてその作品は天皇陛下の元にも置かれるようになりました。モデルとなった馬たちが次々と戦争で命を落とすことに心を痛め、全財産を費やして戦没馬慰霊像を制作しました。生涯の全てを馬像制作に捧げたといわれている作家でございます。

埼玉県本庄市にて般若純一郎の座牛笛吹童子、宮竹一清の聖観音菩薩。

埼玉県本庄市にて般若純一郎の座牛笛吹童子、宮竹一清の聖観音菩薩立像をお売りいただきました。

本日は二件の出張買取。一件目は本庄市へリサイクル業者様のご紹介で出張買取させていただきました。お父様のご遺品整理とのことで、ブロンズ、仏像、掛軸などをお売りいただきました。ブロンズは般若純一郎の座牛笛吹童子。重量が10キロ近くある大振りのブロンズ像で、大変造りの良い作品でございます。共箱など付属品はありませんでしたが、ブロンズ彫刻作品は買取強化中ですので、お客様にご満足いただける査定額で買い取らせていただきました。仏像は宮竹一清の木彫り「聖観音」。こちらは高さ45cm(光背・台座含む)、共箱あり。造りの良い聖観音菩薩立像であります。他にも日本画、仏画の掛け軸をお売りいただきました。お父様の大切にされていたお品々、大切に次へと橋渡しさせていただきます。お忙しい中、お呼びいただき有難うございました。二件目は埼玉県富士見市へお荷物のお片付け整理でお呼びいただきました。こちらではお着物や茶托などをお売りいただきました。お着物はシミの出てしまっているものもございましたが、全て買い取らせていただきました。大切に次へと繋げさせていただきます。本日は六角堂をご指名くださり有難うございました。
本庄市の買取後、リサイクル業者の方に昼食へ連れてっていただきました。「川魚料理 ふじ井」という老舗の鰻屋さんで、うな重をいただきました。注文後に捌き、備長炭でじっくり丁寧に仕上げられた国産の鰻、とってもとっても美味しかったです。お客様をご紹介いただき、鰻までご馳走になってしまい、有難うございます。

般若純一郎(はんにゃじゅんいちろう)1931~1989
1931年富山県生まれ。
高岡工芸高校卒業後、米治一氏に師事し彫塑技術を習得。
1965年高岡市展市長賞高嶺賞。
その他、県展・市展10回入選、日展初入選(以後数回入選)

東京都目黒区東山にて岡本太郎のブロンズ像「若い夢」、洋銀製の馬置物。

東京都目黒区東山にて岡本太郎のブロンズ像「若い夢」、洋銀製の馬置物をお売りいただきました。

業者様のご紹介で、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。お家に閉まったままの置物や絵画などをご処分したいとのことでご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、岡本太郎のブロンズ像「若い夢」、洋銀製の馬置物、リトグラフなど。「芸術は爆発だ!」の名言で知られている岡本太郎さんの作品「若い夢」は、当社で買い取りを強化している作家作品ですので、お客様にご満足いただける査定額で買取することが出来ました。付属品も全て揃っており、状態の良いお品でした。「若い夢」は日本青年館新館建設基金募集のため、多くの芸術家に呼びかけを行った際、第1回を担当した岡本太郎が制作した作品であります。「人生は夢だ。夢見るものは永遠に若い。にっこり笑ってこの世のすべての空しさと闘い、挑みそれをのり越える。その瞬間にこそ若い夢がひらくのだ。」頬杖をつき、無邪気な笑顔を浮かべ未来を見つめるその眼差しは、私たちに明日を生きる前向きな活力を与えてくれるような気がします。佐賀県にある「川崎電気」という配電盤メーカーの工場の敷地内に作品が置かれております。馬の置物は洋銀製のもの。馬の置物はブロンズ製、木彫りのものなど多々ございますが、人気がありますので高額査定で買取させていただきました。素晴らしい作品をお売りいただき、有難うございました。
当社では岡本太郎の油彩画や、リトグラフ、シルクスクリーンなどの版画作品、オブジェなどの立体作品を幅広く買取しております。ご不要の作品がございましたら、是非六角堂までお問い合わせください。高額査定で買取させていただきます。

岡本太郎(おかもとたろう)明治44(1911)年2月26日~平成8(1996年)1月7日
1911年 2月26日、母の実家である神奈川県橘樹郡高津村二子/現在の川崎市高津区二子に生まれる。
1929年 慶應義塾普通部を卒業、東京美術学校(現・東京藝術大学)洋画科入学半年後中退。父のロンドン軍縮会議取材に伴い渡欧。
1931年 ソルボンヌ大学哲学科で、哲学・心理学・民俗学を学ぶ。
1940年 パリ陥落に伴い帰国。
1942年 海外に在住していたために延期されていた徴兵検査を31歳にして受け甲種合格。召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送る。
1946年 復員、東京都世田谷区上野毛にアトリエを構える。
1947年 後に養女となる平野(旧姓)敏子と出会う。
1948年 花田清輝、埴谷雄高らと「夜の会」結成。
1954年 アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立、「今日の芸術」初版刊行。
1956年 旧東京都庁舎(丹下健三設計)に「日の壁」「月の壁」など11の陶板レリーフを制作。
1970年 大阪の日本万国博覧会のシンボル「太陽の塔」制作。
1973年 岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛んだ。スポンサーは積水ハウス。
1984年 芸術文化勲章受章(フランス)。
1989年 芸術文化勲章受章(フランス)。
1996年 1月7日逝去、享年84歳。
マスコミ出演も多く、「芸術は爆発だ!」の名言で知られております。

東京都三鷹市にて桑原巨守のブロンズ像、松月斎寿政の黄銅茶托、掛軸など。

  

東京都三鷹市にて桑原巨守のブロンズ像、松月斎寿政の黄銅雪月花金銀高肉象嵌茶托、掛け軸などをお売りいただきました。

業者様のご紹介で、解体前のお片付け整理でお呼びいただきました。古くからお家に閉まったままの掛け軸や置物などをご処分したいとのことでご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、桑原巨守のブロンズ像、松月斎寿政の黄銅雪月花金銀高肉象嵌茶托、掛け軸など。彫刻家 桑原巨守の作品は数少なく、当社でも買い取りを強化している作家さんです。共箱などの付属品はございませんが、お客様にご満足いただける査定額で買取させていただきました。雪月花模様の茶托は松月斎寿政の作。明治から大正期に造られたものと思われます。黄銅地に金銀銅で梅花と月の満ち欠けが象嵌されています。外形が雪輪の形、貼り付け象嵌模様が月と梅花、全体で「雪月花」を表しています。五客それぞれに違った象嵌が施されてます。梅花紋は花が銀、蔕が金、茎が銅、葉は真鍮の象嵌かと思われます。月の満ち欠けは2点が金象嵌、3点が銀象嵌です。底面にそれぞれ「寿政」の刻印が有ります。重厚な造りで、とても丁寧な作行きです。煎茶道具も現在買い取りを強化しておりますので、こちらも高価査定で買取させていただくことが出来ました。掛軸は日本画のものが多く、シミなどはございましたがこちらも全て買取らせていただきました。良い作品を数多くお売りいただき、有難うございました。

桑原巨守(くわはらひろもり)1927~1993年
1927年 群馬県沼田市で生まれる。
1949年 東京美術学校彫刻科を卒業。関野聖雲に師事する。
1964年 二紀展にて「裸婦B」「裸婦A」で初入選となる。
1966年 二紀展にて「しゃがむ」で同人賞を受賞する。
1971年 女子美術大学教授に就任する。
1975年 第29回二紀展にて「風と花(その2)」「砂山」で菊華賞を受賞する。
1979年 ブルガリア政府に作品が買い上げとなる。
1982年 第2回高村光太郎大賞展へ招待出品し、美ヶ原高原美術館賞を受賞する。
1983年 第37回二紀展で文部大臣賞を受賞する。
1989年 第43回二紀展で宮本三郎賞を受賞する。
1993年 女子美術大学名誉教授となる。8月26日逝去。享年66。

千葉県市川市にて高田博厚のブロンズ像 femme assise、絵画など。

千葉県市川市にて高田博厚のブロンズ裸婦像「femme assise(座る女性)」、絵画などをお売りいただきました。

業者様のご紹介で、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。絵画やブロンズ像をご処分されたいとのことでご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、人気彫刻家 高田博厚のブロンズ裸婦像「femme assise(座る女性)」、絵画など。絵画は油彩や水彩画、リトグラフなど、外国人画家の作品が多くございました。馬の絵画がお好きだったのでしょうか、ポール・ギヤマンやアンドレ・ブラジリエの馬のリトグラフが多くございました。ブロンズは彫刻家 高田博厚の「femme assise」。高田博厚は日本を代表する彫刻家であり、思想家であります。彫刻において、オーギュスト・ロダン、アントワーヌ・ブールデル、アリスティド・マイヨールといった近代彫刻の流れを吸収し、西洋的な人体造形が特徴的な作風で知られております。フランス滞在の時には作家のロマン・ロナン、哲学者のアラン、画家のジョルジュ・ルオーなどと交流しました。femme assiseはフランス語で日本語に訳すと座っている女性となります。1968年の製作、高さ約70㎝の大振りな作品になります。大理石の台座にスレ傷などございましたが、こちらは当社で買取強化中の作家作品になりますので、お客様にご満足いただける査定額で買取させていただきました。お売りいただいたお品々、大切に次へと繋げさせていただきます。本日はお忙しい中、お呼びいただき有難うございました。

高田博厚(たかたひろあつ)1900年(明治33年)~1987年(昭和62年)
1900年 石川県七尾市で三男として生まれる。
1903年 父の弁護士開業に伴い福井市に移る。そこから16年にわたり福井で過ごす。
1913年 県立福井中学校(現在の福井県立藤島高等学校)に入学。彫刻家である雨田光平の作品を通して彫刻に出会う。
1918年 高村光太郎や岸田劉生らと出会う。
1919年 東京外国語学校イタリア語科に入学する。
1921年 東京外国語学校を中退。翻訳したミケランジェロの書簡が、同人誌「白樺」に掲載される。彫刻の制作を志し、胴体像であるトルソーづくりを開始。沢田庚子生と結婚する。
1927年 武者小路実篤主唱の第一回大調和美術展に彫刻6点を出品する。
1928年 武者小路実篤や中原中也らと親交を深める。
1929年 梅原龍三郎の国展に出品した彫刻作品が受賞し、会員に選出される。
1931年 妻と4人の子を残して渡仏する。ノーベル賞作家のロマン・ロランに才能を評価される。ロマン・ロランとマハトマ・ガンジーの会談に同席。
1932年 哲学者でモラリストのアランをはじめとするフランスの文化人と交流を深め、彫像を制作する。
1935年 アンデパンダン展(歴史あるパリの無審査大型展)に出品。国画会の会員に選出される。
1938年 パリ日本美術家協会を設立。第一回展をベルネーム・ジューヌ画廊で開催する。
1940年 毎日新聞の嘱託として、パリ兼ヴィシー特派員を務める。パリ外国記者協会の副会長に就任。
1957年 28年ぶりに帰国。東京都新宿区を拠点とする。
1963年 日本ペンクラブ会員理事に就任する。
1964年 東京藝術大学の講師を務め、九州産業大学芸術学部の創設にも尽力。
1966年 鎌倉市稲村ヶ崎に住居兼アトリエを移す。
1975年 勲三等瑞宝章を受章する。
1980年 埼玉県東松山市で高田博厚彫刻展と講演会を開催する。
1986年 東武東上線高坂駅西口に「遠望」と「大地」が設置される(高坂彫刻プロムナードの発祥彫像)。
1987年 心不全のため神奈川県鎌倉市で亡くなる。享年86歳。東松山市の高坂彫刻プロムナードに14体の彫刻作品が増設される。