東京都文京区本郷にて、唐木の違い棚、画仙紙、筆、古墨、黄道周銘漢詩刻端渓硯、老抗端渓硯などの書道具、をお売りいただきました。

東京都文京区本郷にて、唐木の違い棚、画仙紙、筆、古墨、黄道周銘漢詩刻端渓硯、老抗端渓硯などの書道具、をお譲りいただきました。

遺品整理にてお呼びいただきました。お亡くなりになられたお爺様が大事にされておりました書道具などをお譲りいただきました。次に大事にしていただける方へと大事に橋渡しさせていただきます。現在中国のコレクターの買い付けなどで文房四宝をはじめ書道具が高額となっております。今回お譲り頂いたお品のように漢詩の入った硯や古い書道具は特に人気がありますので、高価買取が可能です。

六角堂では、端渓硯、端石硯、歙州硯、洮河緑石硯、澄泥硯、魯硯、太史硯などの硯、曹素功、汪近聖、汪節庵、胡開文、古梅園、墨運堂、玄林堂、鳩居堂などの墨、紅星牌、三星牌などの中国画仙紙、古筆をはじめ、拓本、硯箱、硯屏、水滴、墨床、筆架、筆筒、水印などの書道具を探しております。また、寿山石、青田石、田黄石、鶏血石などの希少な印材も探しております。書道具は、使用済みのものや状態の良くないものでも査定が付く場合が数多くあります。ご売却をお考えの際は、是非六角堂までご相談ください。

書道具の他、時代家具、古道具、骨董・美術品をご処分の際には、六角堂までお問い合わせください。

黄 道周(こう どうしゅう)1585年3月9日(万暦13年2月9日) – 1646年4月20日(隆武2年3月5日)は、明末の作家、能書家。字は幼平、号は石斎。

福建漳浦の人。貧民の出身で多芸多才であった。書法は鐘繇に学んで楷書・行書・草書が清健にすぐれ、倪元璐や王鐸と並んで明代の書道の名人と称された。 天啓2年(1622年)に科挙に合格して進士に及第し、庶吉士となる。のちに、翰林院編修となった。崇禎元年(1628年)、右中允に任じられる。その後すぐ、銭龍錫に対する減刑を求めて崇禎帝の怒りを買い、3級連降格される。崇禎5年(1632年)、再び上疏して時政を批判したため、免職となる。崇禎9年(1636年)、旧職に復した。しかし崇禎11年(1638年)、軍督の楊嗣昌が服忌期間に任命を受けたのを批判して、再び6級連降格される。翌年、友人の鄭鄤が崇禎帝の指示により凌遅刑に処され、悲しみ憤った。崇禎14年(1641年)、江西巡撫の解学龍が黄道周の代わりに許しを乞うて上書したが、崇禎帝は私情にとらわれて不正を疑い、黄道周に酷い拷問を加えて収監した。首輔の周延儒が崇禎帝に懇願したため死罪は免れ、広西へ追放された。同年、周延儒の推薦で再び旧職に復したが、崇禎帝の滅びる運命を予見し、失望して自ら辞任した。その後、九龍江で書画塾・鄴山講堂を開く。崇禎17年(1644年)、崇禎帝が自殺し、弘光帝が南京で即位すると、南京へ上り南明の礼部尚書を務め、職務に精励した。しかし翌弘光元年(1645年)に清軍が南京を占領し、弘光帝が捕らえられた。この時、黄道周は浙江へ大禹の祭祀のため公務出張していて難を逃れたが、悲しみとともに福建の家へと帰る。同年、福州の地で鄭芝龍らと共に、隆武帝の許へ出仕し、武英殿大学士となる。翌年、江西に赴き義勇兵を募ろうとしたが、清軍に捕らえられる。黄道周は明朝への強い忠誠心を示し、降伏を拒絶したため、南京で処刑された。4人の弟子(蔡春落、頼継謹、趙士超、毛玉潔)も処刑された。 南明において文明伯の号が贈られ、忠烈と諡された。

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