千葉県千葉市若葉区にて、総桐箪笥、お着物、岩田藤七本人作のペルシアガラス一輪挿しをお売りいただきました。

千葉県千葉市若葉区にて、総桐箪笥、お着物、岩田藤七本人作のペルシアガラス一輪挿しをお譲りいただきました。

遺品整理にて、お呼びいただきました。六角堂では、ガラス工芸作品の買取りを強化しております。岩田藤七、その長男・岩田久利、その妻・岩田糸子、孫・ガラス造形家イワタルリなどの岩田ガラスなどをはじめ、藤田喬平や黒木国昭の作品をご売却の際には、是非六角堂をご指名ください。専門の鑑定士が、査定、買取をさせていただきます。また、ルネ・ラリックやバカラ、エミール・ガレ、ドーム・ナンシーなど海外のガラス工芸作品も随時買い受けさせていただきます。

出張帰りに、京葉道路幕張PAにある「九十九里片貝波乗り食堂」さんへ寄り、片貝波乗り定食(数量限定)、あさりのかき揚げをいただきました。お米は千葉特産米の「ふさおとめ」を使用。ふっくらつややかもっちもちの美味しご飯でした。あさりのかき揚げも磯部風味でとっても美味しかったです。天つゆなしでいただいちゃいました!

岩田藤七(いわたとうしち)

明治26年、日本橋の呉服商に生また岩田藤七は、東京美術学校(現東京藝術大学)で彫金・洋画・彫刻を学んだ後、 アールヌーボーに啓発され、ガラスの道を志しました。 昭和初期、ガラスといえば実用的な工業製品が主だった時代、独力で色ガラスの製法を学び、工場を開き、工芸品を作り始めました。 制作に必須な職人を育てるとともに、様々な色のガラス作り、独創的な成形の技術を研鑽・探求し、「日本の色ガラス工芸」という新たな世界を創出しました。
色彩豊かで流動的な形、そして暖かみのある藤七作品は、透明や切子ばかりのガラス界に衝撃を与え、高い評価を受けました。 制作意欲と情熱に溢れる藤七は、日本人の美意識に基づく「日本独自の」ガラス芸術を目指し、花器・食器の他、茶器の制作も始めました。 また、色ガラスによる装飾壁面「コロラート」を生み出し、ガラスの近代建築への応用という新しい分野を築きました。
岩田藤七は、日本のガラス芸術の開拓者であるとともに、世界のガラス芸術にも先進的な役割を果たし、現在のガラス作家にも多大な影響を与えています。

1893年 [明治26年] 宮内庁御用達呉服商・初代岩田藤七の長男として東京日本橋本町に生まれる。幼名、東次郎。
1900年 [明治33年] 父藤七死去。二代目藤七を襲名。
1909年 [明治42年] 四条派日本画家稲垣雲隣からつけ立てを習う。
1911年 [明治44年] 白馬会洋画研究所にて岡田三郎助に師事。
1912年 [明治45年] 東京美術学校(現東京芸術大学)金工科入学。彫金を海野勝珉(眠)(うんの しょうみん、天保15年5月15日(1844年6月30日) – 大正4年(1915年)10月5日または8日)、平田重光(1855~1926  安政2~大正15年没)などに学び、漆芸は六角紫水に薫陶を受ける。
1918年 [大正 7年] 東京美術学校金工科卒業。西洋画科に再入学。
1922年 [大正11年] 建畠大夢に師事し、彫刻を学ぶ。第4回帝展「深き空」(彫刻)を初出品。
1923年 [大正12年] 東京美術学校西洋画科卒業。橘ガラス工場社長今村繁三に知己を得、ガラス製法の手ほどきを受ける。
1925年 [大正14年] 商工省第12回工芸展(金工)褒状。長男久利生まれる。
1926年 [大正15年] 商工省第13回工芸展(金工)3等賞。
1927年 [昭和 2年] 葛飾区小菅町に工房を設置。第8回帝展からガラスを出品。
1928年 [昭和 3年] 第9回帝展より連続3回特選。以後帝展、文展、日展へ毎年 出品。
1929年 [昭和 4年] 帝展無鑑査出品者となる。
1931年 [昭和 6年] 岩田硝子製作所を設立。
1935年 [昭和10年] 第1回個展開催。以後毎年 個展開催。
1936年 [昭和11年] 昭和11年 文部省美術展覧会・招待展出品。
1937年 [昭和12年] 第1回新文展審査員、出品作政府買上。
1938年 [昭和13年] パリ万国工芸展銀賞受賞。
1940年 [昭和15年] 紀元2600年 奉祝美術展出品。
1941年 [昭和16年] 東京府芸術保存審議会委員、東京工芸総合展美術工芸部展審査員。
1943年 [昭和18年] 商工省の重要工芸技術保存資格者として、硝子製造残留工場に指定される。
1944年 [昭和19年] 第10回個展、戦争激化のため以後個展を一時中断。戦時特別文展出品、政府買上。
1946年 [昭和21年] 第2回日展審査員。以後審査員を続ける。
1947年 [昭和22年] 戦後初の個展(第11回)開催。
1951年 [昭和26年] 日展出品作「光りの美」が対象となって25年 度日本芸術院賞受賞。
1954年 [昭和29年] 日本芸術院会員。
1957年 [昭和32年] 高村豊周、山﨑覚太郎、楠部彌弌らと葵洸会創設。
1958年 [昭和33年] ブリュッセル万博出品、グランプリ。草月会館玄関ホールのシャンデリアをつくる。脳梗塞また胃の手術で闘病生活に入る。
1961年 [昭和36年] 個展第25回の記念展「岩田ガラスのコロラート展-ガラス工芸の近代建築への発展-」開催。近代建築でのガラス造形の展開をめざす前衛的な試みとして、新作「コロラート」製作。横浜髙島屋食堂大壁面に「コロラート」を製作。
1962年 [昭和37年] ホテル・オークラの建設時に照明装飾プランに参加。日本伝統工芸展受賞選考委員、以後も続ける。ローマに開館した日本アカデミーに作品が展示される。
1963年 [昭和38年] 日本生命ビル内日生劇場入口正面壁面に「コロラート」を製作。
1964年 [昭和39年] 千葉・扇屋百貨店に「コロラート」製作。
1965年 [昭和40年] 「新しい工芸の茶会展」開催、ガラスによる茶碗、茶入、水指類を出品、独自の新分野を開く。ロイヤル・ホテル正面入口にガラス・オブジェ「光瀑」を製作。
1966年 [昭和41年] 千代田生命ビル(現目黒区総合庁舎)に「コロラート」を製作。
1967年 [昭和42年] 宝塚カソリック教会にステンド・グラスを製作。第2回日本芸術祭に「神話」が選ばれる。
1968年 [昭和43年] 大回顧展「ガラスとともに40年 ・岩田藤七展」開催。皇居新宮殿にコロラート壁面「大八洲」を製作。
1969年 [昭和44年] 第10回毎日芸術賞受賞。
1971年 [昭和46年] 文化功労者に選ばれる。
1972年 [昭和47年] 日本ガラス工芸協会が設立され、名誉会員となる。
1975年 [昭和50年] この頃から「貝」をモチーフとした作品を数多く発表。
1980年 [昭和55年] 8月23日死去。 87歳。