東京都文京区向丘にて、千家十職釜師大西清右衛門の銚子、指物師駒沢利斎の四方盆などの茶道具、和たんすなどをお売りいただきました。

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東京都文京区向丘にて、千家十職釜師大西清右衛門の銚子、指物師駒沢利斎の四方盆などの茶道具、和たんすなどをお譲りいただきました。

六角堂では、お茶道具に関して古いものから新しいものまで、人間国宝や作家物からお稽古用まで幅広く取り扱っております。お茶道具の専門スタッフか、お見積もりに伺います。ご不要になりましたお茶道具がございましたら、六角堂までお問い合わせください。
お茶道具の強化買取作家は以下となります。
千家十職 大西清右衛門、駒沢利斎、土田友湖、黒田正玄、永楽善五郎、中川浄益、楽吉左衛門、中村宗哲、奥村吉兵衛、飛来一閑
陶芸家 朝日豊斎、上田直方、 大樋長左衛門、 小川長楽、大野鈍阿、亀井楽山、久世久宝、坂倉新兵衛、坂田泥華、清水六兵衛、須田青華、杉田祥平、杉本貞光、膳所焼陽炎園、田原陶兵衛、高取静山、高取八仙、高橋道八、長岡空権、中村翠嵐、西村徳泉、三浦竹軒、三浦竹泉、宮川香斎、清風与平
金工師 角谷興斎、角谷一圭、角谷莎村、金谷五良三郎、木村清五郎、菊地政光、 佐藤浄清、高橋敬典、 高木治良兵衛、長野烈、根来実三、根来茂昌、畠春斎、明珍
漆芸家 一后一兆、川端近左、川瀬表完、前畑雅峰、道場宗廣、村瀬治兵衛、渡辺喜三郎

大西 清右衛門(おおにし せいえもん) 釜師:釜、鉄瓶など
・初代:浄林(1590~1663)当時の草庵風の京作とは異なる書院風の独自の作風を確立
・二代:浄清(1594~1682)比較的浅い砂気のある独特の地肌を打ちつくり、ざんぐりとした釜が多い
・三代:浄玄(1630~1684)釜肌の研究をつみ、文字などを鋳込み枯淡味のある釜を作る
・四代:浄頓(1645~1700)書院風の広間向きのものが多く、「きれいさび」の浄林・浄清の作風を受け継ぐ
・五代:浄入(1647~1716)形は京作風のものが多く、砂気のある地肌で書院風の「きれいさび」の釜が多い
・六代:浄元(1689~1762)浄元の代より千家出入りの釜師となり、侘び茶風の大西釜の作風を展開
・七代:浄玄(1720~1783)大西家中興の祖。作風は入念で、よく整った美しい気品のある釜が多い
・八代:浄本(1747~1785)草庵向きの茶気のある釜を作る
・九代:浄元(1749~1811)作風は精作で上品な典雅なものが多くつまみや座に至るまで吟味されている
・十代:浄雪(1777~1852)草庵好み、侘び茶向きの釜の製作に努力を傾ける
・十一代:浄寿(1808~1875)作風は大胆で力強く、かつ典雅な趣深い作品が多い
・十二代:浄典(1841~1869)作品は少ないが、海老鎧付の釜などおとなしい繊細な作風
・十三代:浄長(1866~1943)山本春挙や橋本関雪の下絵を釜に鋳込み新しい京釜の展開を試みる
・十四代:浄中(1888~1960)独自の地肌を作り始め、即中斎宗匠の字や絵を鋳込んだ華やかな釜が多い
・十五代:浄心(1924~2002)東山魁夷下絵の釜などを作る
・十六代:清右衛門(1961~)平成二年十六代襲名

大西清右衛門(おおにし せいえもん)は、千家十職の釜師。大西家は、室町時代後期から400年以上続く京釜師の家。四代目当主が清右衛門をなのり、六代目以降九代目をのぞき、代々の当主は清右衛門という名を継いだ。京都市中京区の三条釜座(かまんざ)に工房があり、「大西清右衛門美術館」も併設されている。現在は十六代清右衛門が当主。十五代の長男として京都に生まれ、大阪芸術大学美術学部彫金科卒業。父が隠居の後、1993年に十六代清右衛門を襲名した。

駒沢 利斎(こまざわ りさい) 指物師:茶箱、棚物など
・初代:宗源(1673~81)初代宗源は通称を理右衛門といいます。延宝年間指物を家業として自立。
・二代:宗慶(1628~1693)通称は理右衛門。
・三代:長慶(?~1686)通称は利兵衛、理右衛門。
・四代:駒沢利斎(1673~1746)三代長慶の婿養子。通称は理右衛門、名は利斎。
・五代:駒沢利斎(1707~1764)四代の子。通称は利右衛門、名は利斎。
・六代:駒沢利斎(1739~1803)通称は利右衛門、名は利斎。
・七代:駒沢利斎(1770~1855)六代婿養子。呼名を茂兵衛、通称を信邦、名を利斎
・八代:駒沢利斎(1796~1846)幼名は十次郎、名は理右衛門、利斎。
・九代:駒沢利斎(1819~1862)七代の子。幼名は十次郎、寿次郎。名は理右衛門、利斎。
・十代:駒沢利斎(1841~1866)八代の長男。幼名は重次郎。名は理右衛門、諡は利斎。
・十一:代駒沢利斎(1852~1902)岡本喜助の子として生まれ、十代駒沢利斎の婿養子となる。名は理右衛門、利斎。歴代の中で最も茶の湯に精通した人物といわれている。          ・十二代:駒沢利斎(1876~1896)十一代の長男。幼名は利三郎、諡は利斎。21歳で早世。
・十三代:駒沢利斎(1883~1952)十一代の次男。幼名は重次郎、名は利斎。
・十四代:駒沢利斎(1909~1977)十三代の妻。名は浪江、利斎。

初代・宗源が延宝年間に指物業を始めたのが最初とされる。千家に関わったのは2代・宗慶からで、千宗旦の注文により指物を製作したと言われる。しかし、積極的に千家に関わるのは4代・利斎からである。彼は表千家六世・覚々斎の知遇を得て千家出入りの茶方指物師として指名され、「利斎」の名を与えられた。これ以後、代々の駒沢家当主は「利斎」を名乗るようになる。       江戸時代後期に活躍した7代・利斎は指物だけではなく塗師としても一流の腕を持ち、8代黒田正玄や11代飛来一閑らと合作を作るなど意欲的に製作を行い、長寿にも恵まれ「駒沢家中興の祖」といわれる。その後は大成する前に早世する当主が相次ぐ。13代・利斎は70歳まで生きたものの、晩年に儲けた息子に先立たれると言う不幸にあう。13代の死後、妻であった浪江は娘・千代子を後継者とするべく家業の継承を決意、14代・利斎となるが、その千代子も1961年(昭和36年)に早世、14代も昭和52年に死去、以後現在に至るまで名跡は空席となっている。