東京都東村山市にて、高木得元の釜、茶道具、掛軸、佐久間竹浦の画帖。

 

東京都東村山市にて、釜師高木得元の四方口釜、茶道具、掛軸、日本画家佐久間竹浦や草刈樵谷などの画帖、置物をお売りいただきました。

業者様のご紹介で、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。本日お売りいただいたお品は、釜師高木得元の釜など茶道具、掛軸、日本画家佐久間竹浦や草刈樵谷などの画帖、薩摩焼や九谷焼の置物など。たくさんのお品をお売りいただきました。高木得元は高木治良兵衛と同じ高木家の釜師。高木治良兵衛は京の町のほぼ中央に位置する「釜座(かまんざ)」に現在までに残る1855年創業の釜師が代々襲名する名前で、当代で6代目となっています。 お売りいただいた釜は宗旦好四方口釜。四方口釜(よほうぐちがま)は、茶の湯釜の形状のひとつで、口造りが甑口を四角形にした形の釜です。四方口釜は、宗旦好み、天命作で、釜の底を尾垂(おだれ)に直したものといいます。古いお品ですので錆や共箱の痛みなどございましたが、 大変良い作でしたのでお客様にご満足いただける査定額で買い受けさせていただきました。掛軸は、日本画、書のものなどがございました。画帖は、佐久間竹浦や草刈樵谷など日本画家のものが十点ほど納まっておりました。亡くなられたお爺様やお母様のご遺品とのこと、大切に次へと繋げられるよう頑張らせていただきます。本日は良いお道具をお売りいただき、ありがとうございました。
帰宅途中、「江川亭 東村山店」へ寄り、昼食をいただきました。こちらは15年ほど前、妻と結婚したばかりの頃によく来たお店で、約十年ぶりに寄りました。中華麺をいただきましたが、昔と変わらない味でとても懐かしかったです。いずれまた妻と来てみたいと思います。

佐久間竹浦(さくま ちくほ)
名は資夫、号は竹浦、別に菌浦、五谿と号した。明治9年竹田町で生れ大正14年に没した。幼くして独り祖母に育てられた。亡父純徳医師の遺産が豊かで、大切に育てられた。五つ六つの頃に紙と筆を与えると絵を描いて居たと言う。9歳の春に元岡藩絵師川合石舟の門に入り、後に京都に出て田能村直入の指導を受け南画を学んだ。直入没後は田近竹邨に師事して大いに研鑚を積み、郷里に帰り水石会の中堅として活躍し、多くの作品を遺して居る。初め水石会で竹浦について学び、後京都の竹邨の門に入った画家は草刈樵谷などが幾人か居る。竹浦は小学校の時代に、作曲家瀧廉太郎と親友で、交流が続き廉太郎からの書簡や絵が今も遺っております。また、昭和41年5月から55年3月まで竹田市長を務めた佐久間盛夫は三男にあたる。

草刈樵谷(くさかり しょうこく)
1892-1993 大分県竹田市に生まれる。本名辰生。初め同地の佐久間竹浦に師事して画を修め、大正8年京都に上り田近竹邨の門に入る。昭和20年まで京都在住の間、竹邨の主宰する日本南画院に連続出品。大正13年日本南画院院友となる。昭和3年大禮記念京都大博覧会に「秋山吟節」を出品。昭和12年第一回南画連盟展に「溪夏」を出品し奨励賞を受賞。昭和17年第5回新文展に「奔瀬図」が入選。昭和20年帰郷、翌年竹田荘に入り、以後16年間同荘の経営管理に従事する。かたわら田能村竹田画の研究に情熱を傾け、その画風を慕って南画制作を続けた。また、昭和49年にはそれらの功績が認められ、竹田市在住者で初めて名誉市民に選ばれることになった。平成5年(1993)歿、100才。