東京都品川区戸越にて、北大路魯山人の志野鉢、お茶道具や桐たんすの買い取り。

魯山人魯山人2

東京都品川区戸越にて、北大路魯山人の志野鉢、お茶道具や桐たんすの買い取り。

遺品整理にてお呼びいただきました。某百貨店の美術部で働いていた方のようで、多数の骨董品がございました。今回は、魯山人の鉢、お茶道具を多数買取りさせていただきました。徐々に骨董品をご処分されるとのこと、またのご依頼お待ちしております。

北大路魯山人  (きたおおじろさんじん) 1883(明治16)~1959(昭和34)

北大路魯山人は上賀茂神社の社家・北大路清操の次男として京都府に生まれました。 本名を房次郎といいます。生後すぐに養子に出されて養家を転々とする逆境に生い立ちました。後に陶芸家、書家、美食家、料理家。初め書家として名声を博す。 1888(明治21)年、木版師・福田武造の養子となりました。 1893(明治26)年に梅屋尋常小学校を卒業後、 京都の漢方薬専門店「千坂わやくや」の丁稚奉公に出ました。 ここで三年間勤めますが、竹内栖鳳の絵に啓発されて日本画家を志望します。 1903(明治36)年、書を本格的に勉強する為に上京しました。 1904(明治37)年に日本美術展覧会で一等賞を受賞し、 受賞作品が宮内大臣・田中光顕子爵に買い上げられました。 1905(明治38)年、岡本可亭に師事しました。 日本美術展覧会に「福田可逸」の名で入選しました。 1907(明治40)年、書道教授として独立し、「福田鴨亭」と名乗りました。 1909(明治42)年、韓国統監府(後の朝鮮総督府)印刷局に勤務しました。 1910(明治43)年、朝鮮総督府の設置に伴い、書記として勤務しました。 東京に戻ってからは雑誌の題字書きに携わり、 滋賀県長浜の紙問屋・河路豊吉にその力量を見出されて同地に赴きます。 柴田源七や近隣豪商の食客となりながら、 「福田大観」と名乗って書を揮毫し、篆刻看板、印章等を彫って評判を高めます。 1911(明治44)年、柴田家で竹内栖鳳と親交し、栖鳳の落印を彫るきっかけを掴みます。 1915(大正4)年、長男・桜一に福田家の家督を譲り、自らは北大路姓に復しました。 金沢の文人・細野燕台の世話となり、 石川県加賀市山代温泉の須田菁華窯で作陶への興味を覚えます。 1919(大正8)年、東京京橋に中村竹四郎と共同で大雅堂芸術店を開業しました。 1920(大正9)年、大雅堂芸術店を大雅堂美術店と改称しました。 1921(大正10)年、大雅堂美術店の二階で会員制の美食倶楽部を発足しました。 自ら厨房に立ち、店の古陶磁に手造りの料理を盛って出したところ評判を呼びました。 1922(大正11)年、正式に北大路家の家督を相続し、「北大路魯山人」と名乗りました。 1923(大正12)年、須田菁華窯で美食倶楽部用の食器を制作しました。 関東大震災で大雅堂美術店が焼失し、芝公園内の花の茶屋で美食倶楽部を再開しました。 1924(大正13)年に京都の初代宮永東山の指導で青磁を制作し、 東山窯にて荒川豊蔵と知り合いました。 東京の日枝神社境内にあった星岡茶寮を借り、料亭に改築して会員を募りました。 1925(大正14)年、会員制料亭・星岡茶寮を開始しました。 中村竹四郎が社長、魯山人は顧問として料理、接待、器に対する卓抜な演出で評判を取り、 官、財、政界の社交場として急激に会員を増やしていきます。 1926(大正15)年、神奈川県北鎌倉山崎に星岡窯と邸宅を築きました。 1927(昭和2)年、荒川豊蔵を窯場主任に迎え、魯山人窯芸研究所の看板を揚げました。 「坐辺師友」をモットーに織部、志野、黄瀬戸等の美濃焼系を始め、 乾山、仁清、道八等の京焼系の物にまで造形の理想を求めた幅広い作陶を展開しました。 1928(昭和3)年、久邇宮両殿下に御来窯御台臨を賜りました。 1930(昭和5)年、荒川豊蔵の美濃古窯跡調査を援助し、月刊誌『星岡』に成果を掲載します。 1935(昭和10)年、大阪に星岡茶寮を開業し、関西の食通人に好評を博しました。 しかし、理想に走り過ぎて経営は放漫化し、社長・中村竹四郎との間に溝を生じます。 1936(昭和11)年、放漫経営を理由に星岡茶寮の顧問を免ぜられました。 以後は星岡窯を拠点に作陶一本で進む決意を固めます。 1939(昭和14)年、東京白木屋本店地階食料品部に特選食料館・山海倶楽部を開業しました。 1942(昭和17)年、金沢の遊部外次郎、山中の辻石斎達と専ら磁器制作に専念しました。 1945(昭和20)年、空爆にて星岡茶寮が焼失しました。 1946(昭和21)年、東京銀座に魯山人工芸処・火土火土美房を開業しました。 魯山人窯芸研究所を魯山人雅陶研究所に改称しました。 1951(昭和26)年にパリのチェルヌスキー美術館で現代日本陶芸展が開催され、 この展覧会はヴァロリスに巡回され、ピカソも魯山人の作品を賞讃したといわれます。 1952(昭和27)年、イサム・ノグチ達と備前焼の金重陶陽を訪ね、作陶を行いました。 1953(昭和28)年、金重陶陽に依頼して備前焼の窯を魯山人雅陶研究所内に築窯しました。 1955(昭和30)年、重要無形文化財「織部焼」の保持者(人間国宝)に勧告を受けるも辞退しました。 画家、篆刻家、書道家、料理家、陶芸家、漆芸家として幅広く独自の美の世界を追求し、 各方面において優れた実績を残しました。 焼物本来の実用性を重視した見識が近年の食や器への関心に導いた功績は多大です。