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千葉県市川市にて小森邦夫のテラコッタ像、佐々木象堂の鋳銅置物。

千葉県市川市にて小森邦夫のテラコッタ裸婦像「渚」、人間国宝 佐々木象堂の鋳銅 鳥の置物などをお売りいただきました。

業者様のご紹介で、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。置物やお茶道具などをご処分されたいとのことでご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、お稽古用の茶道具、小森邦夫のテラコッタ裸婦像「渚」、人間国宝 佐々木象堂の鋳銅 鳥の置物など。当社で買取を強化している作家作品などもあり、お客様にご満足いただける査定額で買取することが出来ました。処分されようとしていたお品にもお値段が付き、お喜びいただけました。お売りいただいたお品々、大切に次へと橋渡しさせていただきます。本日はお忙しい中、当社をお呼びいただき誠に有難うございました。

小森邦夫(こもりくにお)1917~1993 昭和-平成時代の彫刻家。
大正6(1917)年6月6日、東京都浅草今戸に生まれる。赤坂高等小学校を経て日大皇道学院に学ぶ。昭和10年、構造社彫塑研究所に入り斉藤素厳(さいとうそがん)に師事。構造展に出品し、昭和15年紀元2600年奉祝展に「めぐみ」で入選して官展初入選をはたす。昭和16年第4回新文展に「断」で入選するが、のちに従軍。昭和21年春、第1回日展に「久遠」で入選し、以後同展に出品を続ける。昭和8年第9回日展に「ながれ」を出品して特選・朝倉賞受賞、同年第1回日本彫塑会展に「婦(A)」を出品して、以後同会にも出品を続ける。昭和30年第11回日展に「裸婦立像」を出品して特選。昭和31年第12回展では「若い女」で2年連続特選となり、翌32年には日展依嘱となった。同年中国平和委員会からの招待で茨城県文化人代表として約40日間中国視察旅行、中国の古代遺跡等を訪れた。昭和33年よりたびたび日展審査員をつとめ、昭和34年日展会員、昭和39年日展評議員となる。昭和55年第12回日展に「腰かけた婦」を出品して文部大臣賞受賞。昭和60年、戦後間もない昭和23年から運営委員、審査員を続けていた茨城県展に「青春譜」を出品し、この作品により昭和59年度日本芸術院賞を受賞した。昭和60年日展理事、日本彫刻会理事となる。平成元年日本芸術院会員に選ばれた。裸婦像によって抽象的概念や情趣を表現するのを得意とし、流麗なポーズ、穏やかな作風を好んだ。代表作に茨城県立運動公園に立つ「緑に舞う」、勝田市駅前「であい」、土浦市にある「湖畔に佇つ」などがある。女性をモチーフにした作品がおおい。平成5年10月22日死去。76歳。

佐々木象堂(ささきしょうどう)1882~1961 明治-昭和時代の鋳金家。
1882年新潟県佐渡生まれ。本名文蔵。1901年(明治34)同郷の初代宮田藍堂(らんどう)について蝋(ろう)型鋳造を学んだ。13年(大正2)上京し、日本美術協会展などに出品してつねに上位の賞を得、27年(昭和2)帝展出品の「鋳銀孔雀(くじゃく)香炉」、29年同展出品の「金銅鳳凰(ほうおう)置物」がともに特選となった。この間、1925年には美術工芸振興を目的とする工芸済々会に入会し、翌26年には近代意匠の樹立を目ざす无型(むけい)会の結成にも参画している。第二次世界大戦後、日本伝統工芸展へ出品した「瑞鳥(ずいちょう)」(1958)、「采花(さいか)」(1959)がいずれも最高賞を受け、60年(昭和35)重要無形文化財「蝋型鋳造」保持者(人間国宝)に認定された。1961年(昭和36)1月26日死去。78歳。作品は、題材を大胆にデフォルメした斬新な形態をみせたものが多い。

東京都杉並区天沼にて人間国宝 前田竹房斎の輪違文花籃、煎茶道具など。

   

東京都杉並区天沼にて人間国宝 前田竹房斎の輪違文花籃(わちがえもんはなかご)、煎茶道具などをお売りいただきました。

遺品整理にてお呼びいただきました。数年前にお亡くなりになられたお婆様のご遺品で煎茶道具などを次へ大事にしていただける方へと繋げるようにとご用命いただきました。お売りいただきました煎茶道具は、煎茶碗、茶壷、ボーフラ、湯さまし、水注、涼炉、火箸、宝瓶、急須、建水、瓶座、器局、茶托、煎茶盆、など。たくさんのお道具をお売りいただきました。竹細工の花籃は人間国宝 二代前田竹房斎の作品。前田竹房斎は大阪の竹工芸家の名称で、親子に渡って受け継がれていました。人間国宝となられた2代が亡くなってから前田竹房斎は途絶えてしまいましたが、前田竹房斎が残した竹工芸品は、竹材の美しさをいかし高い評価を得ており、今もなお人気の高い竹工芸作家として認識されています。お婆様が大事にされていた御道具、大切に次へと橋渡しさせていただきます。本日は六角堂のご指名、誠に有難うございました。
六角堂では、竹編、竹籠、竹細工を高価買取しております。飯塚鳳斎(いいづかほうさい)、飯塚小玕斎(いいづかしょうかんさい)、飯塚琅干斎(いいづかろうかんさい)、田辺竹雲斎(たなべちくうんさい)、 早川尚古斎(はやかわしょうこさい)、前田竹房斎(まえだちくぼうさい)、鈴木玩々斎(すずき げんげんさい) 、和田和一斎(わだわいちさい)などの有名作家の竹籠は特に人気があり、 高価で買取りさせていただきます。

二代 前田竹房斎(まえだちくぼうさい)1917年(大正6)~2003年(平成15)
大阪府堺市出身。本名は房次。
初代竹房斎を父に持ち、自然に竹芸を修練。父の後を嗣いで二代竹房斎として日本伝統工芸展などに作品を発表。竹材の美しさを生かし、造形、意匠に独自の工夫をこらす。繊細な編みを重ねていく一方で大胆な造形を展開。
1935年、2代目竹房斎を襲名。初め日展に作品を発表し、その後11回入選。1959年、日本伝統工芸展に入選、1970年以降毎回入選。1972年、日本伝統工芸展東京都知事賞。1992年、勲四等瑞宝章受章。1995年、竹工芸技術で国指定重要無形文化財(人間国宝)に認定。2003年3月12日死去。85歳。
代表作に「網干編花籃」、「縞文小壺花籃」など。

東京都中野区沼袋にて島田文雄の花生、古代七宝焼花瓶、桐たんす、反物。

 

東京都中野区沼袋にて島田文雄の彩磁椿文花生、喜八作古代七宝焼花瓶、桐箪笥、反物をお売りいただきました。

不動産業者様のご紹介で、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。島田文雄の陶器や反物などをご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、島田文雄の彩磁椿文花生、喜八作 古代七宝焼花瓶、桐箪笥、反物など。桐箪笥は、府中家具松創のもの。多少シミ汚れはありましたが、厚みあるしっかりとしたタンスです。反物は本場大島紬、牛首紬など。喜八作七宝焼花瓶は古代図で出来の良い作品。人気陶芸家 島田文雄の花生は、島田文雄の代表作である彩磁の椿文のもの。当社の買取強化中の作家作品でしたので、お客様にお喜びいただける査定額で買取することが出来ました。お引越し先に保管するスペースがなく、今回泣く泣くのご売却とのこと。査定を頑張らせていただきました。大切にされていたお品々、大事に次へと繋げさせていただきます。本日は六角堂のご指名、たくさんのお品をお売りいただき有難うございました。

島田文雄(しまだふみお)
島田文雄は、1948年に栃木県佐野市に島田隆の四男として生まれる。兄は日本画家の松本哲男。東京芸術大学美術学部工芸科陶芸を専攻し、卒業しました。1974年には、第21回日本伝統工芸展で初入選します。1975年に東京芸術大学大学院を修了し、以後、陶芸講座の非常勤講師や講座助手、講師、助教授、教授を務めます。同年「日本工芸会長賞」を初受賞し、1977年に2度目の「日本工芸会長賞」を受賞、その後も数々の賞に輝いております。1975年大学院を修了し、同大学陶芸講座非常勤講師となる。1986年に陶芸講座助手、1990年講師に、1994年助教授に、2003年教授に就任し現在に至る。1993年には、イギリスを拠点として、欧州14か国へ研修旅行に向かいます。兄は日本画家の松本哲男で、1999年に地元の佐野市文化会館にて兄弟展を開催し、話題を呼びました。招待教授として毎年、アメリカ、中国、韓国など海外各地で轆轤(ろくろ)の実技指導や釉薬の講義を行うなど、国内外において、制作に、指導に、執筆に、取材にと各方面で多忙に活動を行っております。

彩磁(さいじ)
成型素地に描画彩色し、そのあとで透明釉を掛けて本焼きします。素地は文様や絵画的装飾を効果的に見せるために白い磁器が用いられます。
彩色は顔料を混入した彩土を生素地に文様として塗り重ねる場合と、素焼きの前、または素焼きの後の素地に直接液体顔料で着色する方法があります。
宮之原謙の彩盛磁や楠部彌弌の彩埏は彩土によるもので、板谷波山や島田文雄の彩磁は液体顔料を用いてます。

埼玉県さいたま市大宮区にて竹内栖鳳などの掛軸、ちりめんなどの反物。

  

埼玉県さいたま市大宮区にて竹内栖鳳などの掛軸、ちりめんなどの反物をお売りいただきました。

数か月前にお呼びいただきましたお客様から、掛け軸や反物などがまだ出てこられたとのことでご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。本日お売りいただいたお品は、竹内栖鳳などの掛軸、ちりめんなどの反物、洗い張りの生地など。掛け軸は竹内栖鳳の花鳥図「柳鷺図」(二重箱)、赤松雲嶺、中倉玉翠の四季を描いた四幅対など。残念ながら赤松雲嶺は一本欠品しておりました。多少のシミはあるものの、全て買取させていただきました。反物は古代苑の浜ちりめん、扇昌の丹後ちりめんなど。こちらはシミ汚れも良く、保管状態の良いものでした。他にも洗い張りの生地なども併せてお売りいただきました。二度にわたり六角堂をご指名いただき、ありがとうございました。

竹内栖鳳(たけうちせいほう)1864(元治元)~1942(昭和17)
1864年、京都府京都市中京区の川魚料理屋「亀政」の一人息子として生まれました。本名恒吉。1877年(明治10年)に四条派の土田英林に絵を習い始めるが、1881年(明治14年)の17歳の時に同派の名手として知られた幸野楳嶺の私塾へ正式に入門する。この頃から頭角を現し、翌年には私塾の工芸長となり、「楳嶺四天王」(栖鳳と都路華香、谷口香嶠、菊池芳文の高弟4名を指す)の筆頭と呼ばれるようになりました。1887年(明治20年)、23歳の時に結婚し、これを機に絵師として独立する。同年、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)修了。1889年(明治22年)には京都府画学校に出仕し、京都の若手画家の先鋭として名をあげていきます。1891年(明治24年)山元春挙、菊池芳文らと青年画家懇親会を興す。1899年(明治32年)京都市立美術工芸学校の教諭に就任。1900年(明治33年)36歳の時に7ヶ月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受ける。帰国後、雅号を栖鳳と改める。1909年(明治42年)京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)の教諭に就任。1913年(大正2年)に「帝室技芸員」に推挙されることで、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立されました。1919年(大正8年)帝国美術院会員。1920年(大正9年)と1921年(大正10年)の二度にわたって東洋画の源流を訪ねるために中国へ旅行し、代表作で重要文化財の「班猫」は、そののちに描かれた。1924年(大正13年)フランスのレジオンドヌール勲章を受賞、1931年(昭和6年)ハンガリー最高美術賞およびドイツのゲーテ名誉賞を受賞。1937年(昭和12年)、横山大観とともに第一回文化勲章を受章。1942年(昭和17年)、78歳で死去。 評論家の竹内逸は息子である。

東京都世田谷区下馬にて籔内佐斗司のブロンズ像「卯吉」、反物など。

 

東京都世田谷区下馬にて籔内佐斗司のブロンズ像「卯吉」、反物などをお売りいただきました。

お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。本日お売りいただいたお品は、籔内佐斗司のブロンズ像「卯吉」、反物など。籔内佐斗司は、日本を代表する彫刻家として知られています。東京芸術大学の教授としても高い功績を残しており、数々の後進を育て上げている事でも知られています。平城遷都1300年記念事業のマスコット「せんとくん」を制作した事でも有名です。本品は、平成11年の干支作品、うさぎの「卯吉」。330個限定のブロンズ置物。小振りながら、大変かわいい人気作品です。共箱にしまわれて大事に保管されておりましたので、大変状態が良かったです。六角堂で買い取りを強化している作家作品の為、お客様にご満足いただける査定額で買い取らせていただきました。また、本場結城紬や、黄八丈の反物なども併せてお売りいただきました。素晴らしいお品をお売りいただき有難うございました。
六角堂では「籔内佐斗司」作品の高価買い取り、査定・鑑定・出張買取りを致します。
ご所蔵の作品がございましたら、無料にて誠意査定評価のうえ、即金で高価買取りさせていただきます。作品の正当な評価での売却をご希望の方は、是非六角堂までお問い合わせください!

籔内佐斗司(やぶうちさとし)
1953年、大阪府大阪市にて生まれる。大阪府立三国丘高等学校を経て、1978年、東京芸術大学美術学部彫刻科卒業。1980年、東京芸術大学大学院美術研究科澄川喜一研究室で彫刻を専攻し、修了する。1982年から1987年まで、東京芸術大学大学院美術研究科保存修復技術研究室の非常勤講師を勤める。仏像などの古美術の古典技法とその修復技術を研究、新薬師寺地蔵菩薩立像(奈良市)、平林寺十六羅漢像(新座市)などで東京芸術大学が中心となって行った、保存修復に参加する。1987年、彫刻家として活動を開始する。作品には、横浜ビジネスパークの「犬も歩けば」(1990年)など、パブリック・アートも多い。1996年、ニューヨークにて『The World of Satoshi Yabuuchi-scuiptor』展。1997年に第17回現代日本彫刻展の宇部興産株式会社賞。1999年にはパリ三越にて個展を開催。2000年、個展『新世紀に向けて 籔内佐斗司の世界展』。2003年、第21回平櫛田中賞を受賞。2004年、東京芸術大学大学院美術研究科文化財保存学専攻保存修復彫刻研究室教授に就任する。

埼玉県和光市にて中里重利の唐津耳付花入、桐箪笥、着物。

  

埼玉県和光市にて中里重利の唐津耳付花入、桐箪笥、着物をお売りいただきました。

お片付け業者様のご紹介で、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。桐箪笥、お着物などをご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、中里重利の唐津耳付花入、桐箪笥、着物。桐箪笥は伝統工芸品紀州箪笥で、厚みのある桐箪笥、反物は大島紬、友禅など。他にも信楽焼や備前焼など。多数ある中、中里重利の花入は当社で買取を強化している作家作品ですので、お客様にご満足いただける査定額で買取することが出来ました。大切にされていたお品々、大事に次へと繋げさせていただきます。本日は六角堂のご指名、たくさんのお品をお売りいただき有難うございました。

中里重利(なかざとしげとし)1930年12月24日 – 2015年5月12日
父は人間国宝の12代中里太郎右衛門(無庵)で、弟には「中里隆」氏がいます。
兄は、13代中里太郎右衛門。唐津焼の重鎮として高い評価を受けています。
作風としては、絵唐津向付、唐津三作茶碗さらには、茶入、朝鮮唐津の水指といった茶陶を中心に制作しています。 伝統的な家訓を守りながらも、自らでは粉引に始まり、黄唐津、青唐津の壺、さらには三島唐津など唐津焼で作る事ができるものを全般的に手掛けている注目の作家であります。それらの功績からか、様々な賞が送られております。
1944年 人間国宝である父(中里無庵)に師事。
1956年 現代日本陶芸展で松坂屋賞を受賞。
1964年 オリンピック協賛日展の入選作品・外務省買上。
1965年 日展で「三玄壷」が特選北斗賞を受賞する。
1966年 日展無鑑査となる。
1967年 日展委嘱。
1969年 日本現代工芸美術展無鑑査。
1971年 日本現代工芸美術展審査員に就任。
1973年 唐津市神田山口に「三玄窯」を築窯。独立する。
1975年 日本現代工芸美術展で会員賞、文部大臣賞を受賞。
1976年 日展審査員に就任。
1977年 日展会員。現代工芸美術家協会評議員に就任。
1980年 日本新工芸展で会員賞と楠部賞を受賞。中日国際陶芸展審査員に就任。
1981年 九州・山口陶芸展審査員に就任。
1982年 日展審査員に就任。
1985年 佐賀県芸術文化功労賞を受賞する。
1986年 日展評議員に就任。
1996年 県政功労賞を受賞する。
2002年 地域文化功労者表彰(文部科学大臣表彰)を受ける。
2015年 5月12日、腎不全のため福岡市内の病院で死去。84歳。

東京都新宿区市谷加賀町にて、捷普玉蘭 朱泥急須など煎茶道具、着物。

 

東京都新宿区市谷加賀町にて、捷普玉蘭 朱泥急須など煎茶道具、着物、和装小物などをお売りいただきました。

お荷物のお片付け整理でお呼びいただきました。お客様のお母様がお煎茶で使用されていた急須やお着物などをご処分されたいとのことでご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいた煎茶道具は、中国茶を飲む際に使用される茶具の茶壷(茶壺)です。 茶壷は、日本でいうと急須の役割をするもので、実用と鑑賞の両方を楽しめる中国茶器として、中国だけでなく、日本でも人気が高いお品物です。朱泥とは、鉄分の多い粘土を焼いてつくる赤褐色の無釉(むゆう)陶器。中国、明代に、煎茶の流行に伴って宜興窯(ぎこうよう)で創られました。宜興の紫砂土で作られた茶壷はお茶を美味しく淹れられると現在でも高い人気がございます。良い朱泥急須とは粒子が非常に細かく、鉄分を多く含み(これが赤くなる原因)逆にそれ以外の金属ミネラルはあまり含んでなく、これがお茶を美味しくするようです。急須はその形状から、後手・上手・横手と3種類に分類され、煎茶道では上手の急須の事は土瓶、取っ手のない急須は宝瓶と呼ばれます。今回お売りいただいた急須の底部には「捷普玉蘭」とあります。恐らく清代末期~民国期頃の茶壺かと思われます。他にも茶托や瓶敷、煎茶盆などのお道具もお売りいただきました。また、結城紬のお着物や帯締め、帯留めなど和装小物も併せてお売りいただきました。本日はお忙しい中、六角堂をご指名いただき、誠に有難うございました。
近年中国の方々に朱泥急須などの煎茶道具は人気があり、価格が高騰しております。六角堂では、煎茶道具でしたら古いものから新しいもの、作家物から名前のないもの、日本のもの、中国唐物のものまで全て買い受けます。煎茶道に詳しいスタッフが一点一点丁寧に査定し、高額査定にて買取させていただきます。ご不要の煎茶道具がございましたら、是非六角堂までお問い合わせください。

東京都調布市にて、吉岡耕二のオイルオンペーパー「ノートルダム」、振袖。

東京都調布市にて、吉岡耕二のオイルオンペーパー「ノートルダム」、振袖をお売りいただきました。

不動産業者様のご紹介で、お荷物のお片付け整理でお呼びいただきました。絵画数枚、振袖をご処分されたいとのことでご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、吉岡耕二のオイルオンペーパー、リトグラフ3枚、振袖など。
吉岡耕二は奔放な中に哀愁を含んだ色彩感覚で、欧羅巴・地中海等を描き続けている洋画家。抽象と具象の絶妙なバランス、意表をつく重層空間の表現が、吉岡作品の魅力です。お売りいただいた作品は、オイルオンペーパー、タイトルはノートルダム。紙に油絵具とオイルパステルで描き、現地の新聞紙などでコラージュし、自由な発想と遊び心が感じられる作品となってます。
当社で買取強化中の作家作品ですので、お客様にご満足いただける査定額で買取させていただきました。本日はお忙しい中、お呼びいただき有難うございました。

吉岡耕二(よしおかこうじ)
1943 大阪府生まれ
1962 大阪市立工芸高等学校美術科卒業
1967 渡仏、パリ国立美術学校に留学
1968 サロン・ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール出品 / パリ近代美術館
サロン・アーティスト・フランセーズ受賞 / グランパレ
1970 サロン・ドートンヌ初出品 会員候補に推挙される
1971 サロン・テールラテンに招待される
1973 アンデパンダン展出品
1975 サロン・ドートンヌ正会員となる
1981 14年間の滞仏生活を終え帰国
東京・大阪を中心に毎年各地で展覧会を開催
1997 個展 / Bunkamura Gallery(以降’98~’’01、’03、’04、’06、’08、’09、’12、’14開催)
2006 アートフェア上海出展(’07も出展)
2007 個展 / 春天画廊(上海)
2008 高島屋大阪店 (大阪)
2009 丸善美術画廊丸の内店(東京)
2010 ギャラリー桜の木(東京)
2011 総合展 招待作家として参加(高知・高松)
「東日本大震災動物支援チャリティー 吉岡耕二版画展」 / Bunkamura Gallery+
アトリエ出版企画「チャリティー総合展」(東京)
芝田町画廊 チャリティー展(大阪)
2013 個展 /東呉大学(台北)
2016 Gallery Etihad で個展(アラブ首長国連邦アブダビ)

埼玉県川島町にて二玄社の掛軸、書籍、硯、墨、画仙紙などの書道具。

     

埼玉県比企郡川島町にて二玄社の工芸掛軸、書籍、硯、墨、画仙紙などの書道具をお売りいただきました。

業者様のご紹介で、遺品整理でお呼びいただきました。書家をされていたお父様のご遺品である書道具などをご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、硯や墨、画仙紙などの書道具、拓本や法帖、印譜集、篆刻書など書道の本、二玄社の中国工芸掛軸など。墨は墨運堂、古梅園、日本製墨、呉竹、鉄斎翁書画寶墨など古いものから新しいものまで多数ございました。硯は端渓硯、澄泥硯、緑石硯など。画仙紙は中国の宣紙、紅星牌、三星牌など。また、鶏血石や寿山石などの印材も多くございました。その他にも水滴、肉池、硯箱、文鎮、墨床、矢立、筆架など多くの書道具をお売りいただきました。中国で買われた工芸品が多いものの、大切に保管されておりましたので状態も良く、たくさんのお品をお売りいただきました。二玄社の書道関連書籍や工芸掛軸は時代の呉琚:七言絶句、明時代の王陽明:五言古詩、明時代の宋克:公讌詩、明時代の沈粲:草書古詩、宋時代の黄庭堅:寒山子龐居士詩、元時代の趙孟頫:前後赤壁賦、宋時代の米芾:蜀素帖、晋時代の王羲之:遠宦帖、唐時代の褚遂良:黃絹本蘭亭敘、唐時代の顔真卿:祭姪文稿、宋四家墨蹟選、明人書扇選集(1)、拡大法書選集など。多数お売りいただきました。また清時代の呉昌碩(ごしょうせき):胡盧詩畫(ころしが)工芸軸もお売りいただきました。二玄社は書道をされている方にはお馴染みの書籍。書道のお手本帖としても知られております。書道具の買い取りを強化している六角堂では、二玄社の書籍を強化買取中でございます。二玄社の書道専門書や拓本、碑帖、篆刻書、印譜等、書道に関する古書はお任せ下さい。本日はたくさんのお品をお売りいただき、誠に有難うございました。

東京都台東区浅草にて吉田屋窯の香炉(銀火屋)、仏像、掛軸など。

 

東京都台東区浅草にて吉田屋窯の香炉(銀火屋)、仏像、掛軸などをお売りいただきました。

業者様のご紹介で、遺品整理でお呼びいただきました。お父様が生前大切にされていたという骨董品をご処分されたいとのことでご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、江戸後期吉田屋窯の香炉、仏像、掛軸など。仏像は古銅の観音菩薩、木彫りの観音菩薩、大黒天など。掛軸は酒井抱一の花鳥画など。吉田屋窯の香炉は三つ足の九谷五彩香炉。九谷五彩とは赤・黄・紺・紫・青(緑色) を使った絵付。五彩手とも呼ばれまております。火屋は銀製、草花透かし彫りで造りの良い火屋となってます。底印は二重角福銘。香炉とは香を焚く際に用いられる器で、仏具としてのイメージが強いかと思いますが、茶道においても香を焚く事から、香炉は茶道において欠かせない重要な道具の一つであります。仏具、茶道具と共に買い取りを強化している当社では、香炉は特に買取に力を入れております。今回のような時代香炉はもちろん、作家物の香炉、美しい蒔絵・螺鈿などの漆製、翡翠(ひすい)製、銀・銅などの金属製、青磁など様々な香炉を高価買取しております。お父様の大切にされていた骨董品、大切に次へと橋渡しさせていただきます。本日はお忙しい中、出張買取でお呼びいただき有難うございました。
買取先が浅草寺の側で前を通りましたが、非常事態宣言期間中ですので、人はほとんどおりませんでした。当社では一日一件のみの出張買取、車での移動、買取後はすぐに帰宅することとなっておりますので、中には入らずすぐに帰宅しました。外食を一か月近くしておりませんので、出張帰りのラーメンが恋しいです。非常事態宣言の延期が決まりましたので、落ち着いた日々が戻る日まで今しばらく我慢します。

吉田屋窯(よしだやかま)九谷焼は、明暦元年(1655)に、加賀藩の命により、有田で陶技を学んだ後藤才治郎が、江沼郡九谷村で開窯したのが始まりですが、約50年続いた後に突然廃窯してしまいます。この間に焼かれたものを、現在「古九谷」と呼んでいます。以降100年近くの間、空白の時代を迎えますが、江戸後期になり、大聖寺藩で、九谷焼再興の動きが興ります。その中心人物が、大聖寺の豪商・豊田伝右衛門。彼は文政7年(1824)、私財を投入し、九谷村の窯跡の横に登窯を築き、翌年から吉田屋(豊田家の屋号)窯を興します。古九谷の青手を再現した吉田屋窯の青手「青九谷」を生み出した窯であると評判を呼び、高い名声を受けました。芸術性や品質において古九谷に迫るものと高い評価を受けますが、七年余りの短い間で廃窯となってしまいます。この後も新たな窯が興り、九谷焼の生産が続けられます。この時代につくられたものが「再興九谷」とよばれ、現代の九谷焼へとつながっています。