埼玉県さいたま市大宮区にて竹内栖鳳などの掛軸、ちりめんなどの反物。

  

埼玉県さいたま市大宮区にて竹内栖鳳などの掛軸、ちりめんなどの反物をお売りいただきました。

数か月前にお呼びいただきましたお客様から、掛け軸や反物などがまだ出てこられたとのことでご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。本日お売りいただいたお品は、竹内栖鳳などの掛軸、ちりめんなどの反物、洗い張りの生地など。掛け軸は竹内栖鳳の花鳥図「柳鷺図」(二重箱)、赤松雲嶺、中倉玉翠の四季を描いた四幅対など。残念ながら赤松雲嶺は一本欠品しておりました。多少のシミはあるものの、全て買取させていただきました。反物は古代苑の浜ちりめん、扇昌の丹後ちりめんなど。こちらはシミ汚れも良く、保管状態の良いものでした。他にも洗い張りの生地なども併せてお売りいただきました。二度にわたり六角堂をご指名いただき、ありがとうございました。

竹内栖鳳(たけうちせいほう)1864(元治元)~1942(昭和17)
1864年、京都府京都市中京区の川魚料理屋「亀政」の一人息子として生まれました。本名恒吉。1877年(明治10年)に四条派の土田英林に絵を習い始めるが、1881年(明治14年)の17歳の時に同派の名手として知られた幸野楳嶺の私塾へ正式に入門する。この頃から頭角を現し、翌年には私塾の工芸長となり、「楳嶺四天王」(栖鳳と都路華香、谷口香嶠、菊池芳文の高弟4名を指す)の筆頭と呼ばれるようになりました。1887年(明治20年)、23歳の時に結婚し、これを機に絵師として独立する。同年、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)修了。1889年(明治22年)には京都府画学校に出仕し、京都の若手画家の先鋭として名をあげていきます。1891年(明治24年)山元春挙、菊池芳文らと青年画家懇親会を興す。1899年(明治32年)京都市立美術工芸学校の教諭に就任。1900年(明治33年)36歳の時に7ヶ月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受ける。帰国後、雅号を栖鳳と改める。1909年(明治42年)京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)の教諭に就任。1913年(大正2年)に「帝室技芸員」に推挙されることで、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立されました。1919年(大正8年)帝国美術院会員。1920年(大正9年)と1921年(大正10年)の二度にわたって東洋画の源流を訪ねるために中国へ旅行し、代表作で重要文化財の「班猫」は、そののちに描かれた。1924年(大正13年)フランスのレジオンドヌール勲章を受賞、1931年(昭和6年)ハンガリー最高美術賞およびドイツのゲーテ名誉賞を受賞。1937年(昭和12年)、横山大観とともに第一回文化勲章を受章。1942年(昭和17年)、78歳で死去。 評論家の竹内逸は息子である。