先日、世田谷区成城で買い取らせていただきましたお茶道具。

   

先日世田谷区成城で買い取らせていただいた、茶道具をご紹介させていただきます。上から、裏千家14代淡々斎書付の裏千家11代玄々斎好 源氏棗。上が須磨で金蒔絵、下が明石で青金、胴の点前が松風で銀、客付は榊で金、裏向こうが東屋で赤になっています。蓋裏に表千家即中斎の花押の入った棗。志土呂焼の茶入「長生殿」。淡々斎書付玄々斎判竹蓋置、銘「千鳥」の茶杓など、時代茶道具を買い受けました。良いお茶道具をお売りいただき有難うございました。京都土産をいつもお世話になっている仕事の先輩のところに持って行くと、お礼にとびっくりドンキーさんへ連れて行ってくれました。牛鍋風鬼おろしバーグ、とっても美味しかったです。明日から出張買取が続きますので、たくさん栄養を取らせていただきました。ご馳走様でした!

志戸呂焼
志戸呂焼の名前は、その昔に静岡県の大井川の西金谷の宿一帯が志戸呂郷と呼ばれており、そこで作られた焼き物であったことから、地名をとって「志戸呂焼」と名付けられたもの。
この一帯では十二世紀前半(平安時代)から十三世紀後半(鎌倉時代)には山茶碗などが焼かれており、きつね沢古窯等が発掘されています。
十六世紀後半の天正十年(1582年)に駿河国を領有した徳川家康公が、美濃久尻の陶工・加藤庄右衛門影忠(後に五郎左衛門と改名)を招いたり、尾張瀬戸地方の陶工の移住によって、志戸呂焼の生産が本格的に行なわれたと考えられています。
その後、寛永年間(1624~1643年)に将軍家の茶道指南であった小堀遠州公が好みの茶器製作の御指導をなされ、すぐれた茶入・水指・茶碗・花入などを焼出されました。
小堀遠州に好まれ、”遠州七窯”の一つにも数えられ、全国的にその名が知られている焼き物。

玄々斎(げんげんさい)精中宗室 1810~1877
三河国領主松平乗友の子として生まれる。
1819年、奥殿藩松平家から裏千家10世認得斎の養子となり、認得斎や大徳寺大綱和尚の下で茶道はもとより、謡曲、香道、華道、和歌、書、国漢文に至るまで、多岐にわたり文学を学び自我の研鑽に努め、17歳の頃に10代認得斎の没に伴い宗室を襲名。認得斎長女まち子と結婚。
主な仕事としては、歴代の家業であった加賀金沢前田家や、伊予松山久松家にての茶道奉行の他、松平家出身ということも有り、尾張徳川家にも仕えている。
1839年の利休250年忌の法要茶会では、3千家の中心的宗匠として催し、それに伴い邸内の増築を行っている。
茶箱点や立礼式の創始、和巾点の復興など、明朗で積極的な人であった。立礼式は明治5年(1872年)の博覧会に際して外国人を迎えるための創案であり、また同じ年に『茶道の源意』を著して茶道は遊芸とする風潮を批判するなど、幕末から明治の変動の時代に合わせた茶道の近代化の先駆として評価されている。