神奈川県横浜市中区にて、水屋箪笥、長火鉢、お茶道具、海市謹製黒塗螺鈿茶入、古伊賀焼の瓢箪形茶入(時代仕覆付)をお売りいただきました。

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神奈川県横浜市中区にて、水屋箪笥、長火鉢、お茶道具、海市謹製黒塗螺鈿茶入、古伊賀焼の瓢箪形茶入(時代仕覆付)をお譲りいただきました。

茶入れとは抹茶をいれる御道具です。古来、中国より渡来した茶入はまさに「宝物」として扱われ、一国一城に相当するような非常に重宝された茶入が存在しました。
茶入れはその由緒や箱書き、銘、仕覆などの次第により高価買い取りにつながります。織部や伊賀、古信楽など桃山~江戸初期の古陶磁もおもしろく、高価にて買い取りしています。

漢作、唐物茶入、古瀬戸、瀬戸茶入、瀬戸真中古窯、金華山窯、破風窯、後窯茶入、国焼茶入、唐津、薩摩、膳所、伊賀、備前、高取茶入などご不要の茶入がございましたら、六角堂までお問い合わせください。

中華街が近かったので、帰りに寄らせていただきました。人気の中国の骨董品などで良い買取が出来るよう、横濱媽祖廟(よこはままそびょう)へと参拝し、大好物の麻婆豆腐を食べて帰りました♪♪

伊賀焼は鎌倉時代初期に伊賀地方で生まれました。
当初は主に無釉焼締めの日用雑器を作る窯にすぎなかったが、室町時代後期に千利休の侘び茶が大成されると伊賀焼の作為のない風情に注目が集まり、盛んに茶会で用いられるようになります。
天正13年(1586)筒井定次が領主になると隆盛した。定次は千利休の高弟古田織部に茶の湯を学んだ数寄茶と知られ、織部指導の下素朴で豪快な茶器を数多く焼かせました。この作風はその後藤堂高虎・高次親子を経て高虎の娘婿小堀遠州に引き継がれ、これらを古伊賀といいます。
伊賀焼は別名七度焼といわれるがこれは土を高温で何度も焼成するためである。
その際わずかに鉄分を含んだ土が燃えるような赤褐色に変化する。また窯の中で降りかかった灰は萌葱色や青緑のビードロ釉となって流れだし煌くような美しい景色を作り出す。
形は歪みや膨らみが強調されており、ありきたりな調和は求めない。へら目は奔放でどれ一つとして同じものは無い。
水指や花生けは耳を持つものが多く、俗に「伊賀に耳あり信楽に耳なし」といわれている。
またひび割れや欠けは本来なら欠点だが、造形性の強い伊賀焼では再現性のない破格の美として高く評価されている。
これらの古伊賀は、その後この地で起きた大飢饉の影響を受けわずか20年あまりで姿を消してしまう。幻の焼物といわれる所以である。