東京都国立市にて、千家十職十代中村宗哲造菊桐蒔絵金輪寺茶器をはじめ、たくさんのお茶道具、古陶磁器、掛け軸など。

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東京都国立市にて、千家十職十代中村宗哲造菊桐蒔絵金輪寺をはじめ、多数のお茶道具、古陶磁器、掛け軸などをお譲りいただきました。

六角堂では、茶碗、水差 、棗、茶入、香合、風呂、釜、花入、茶杓、菓子皿、銀瓶、鉄瓶、 茶棚、炉縁などのお茶道具を強化買取りしております。裏千家、表千家、武者小路千家、裏千家久田家、表千家堀内家、藪内家、遠州流、宗偏流、松尾流、江戸千家、大日本茶道学会などのお道具、作家物からお稽古用まで、お茶道具に関して幅広く取り扱っております。お茶道具の専門スタッフか、お見積もりに伺います。ご不要になりましたお茶道具がございましたら、六角堂までお問い合わせください。六角堂は、東京都内はもちろん、関東一円出張見積無料、鑑定無料です。是非ご利用ください。

金輪寺(きんりんじ) とは、薄茶器の一種で、和物の塗物茶器の初めとされます。
胴は寸切りの如く、置蓋で、蓋の甲が丸みをもち、掛かりが少し外に広くなっています。こんりんじ、金林寺ともいいます。
小型の経筒を茶器に転用したとも、後醍醐天皇が金輪寺で使用した茶器ともいわれます。
『今井宗久茶湯日記書抜』天文24年(1555)4月1日の利休会に「キンリンシ茶入」とあり、江戸時代初期までは濃茶器として用いられましたが、のち薄茶器として使用されたとされています。
後醍醐天皇が吉野金峯山寺で一字金輪法を修せられたとき僧衆に茶を給うため、山中の蔦の古株で作られたという伝説があり、林宗甫の延宝9年(1681)序のある『大和名所記(和州旧跡幽考)』に、「実城寺 実城寺又は金輪寺ともいふ。後醍醐天皇の皇居にさだめられ、此の御代にこそ北京と南朝とわかたれて、年号なども別にぞ侍る。爰にして新葉和歌集などをえらび給ひ、又天皇、御手づから茶入れ十二をきざませ給ふ。或いは廿一ともいふ。そのかたち薬器にひとし。世に金輪寺と言ふこれなり。漆器と言ひながら勅作にて侍れば、盆にのせ、金輪寺あひしらひとて、茶湯前もありとかや。」とあり、足利義政・義昭、織田信長、大雲院と伝来した金輪寺茶器には、蓋裏に「勅」、底に「廿一内」という朱漆書がなされています。勅願の納経筒ではないかともいわれます。

十代中村宗哲なかむらそうてつ(尼宗哲)                         文久二年(1862年)ー大正十五年(1926年)                       『中村家九代/中村宗哲』の室。 『中村家八代/中村宗哲』の四女。 名『真』
母を五歳で亡くした後、学を好む父『中村家八代/中村宗哲』の指針で開校間もない「上京廿組小学校」へ九歳で入学、十四歳で卒業し、当時婦人参政論の先駆者であった『岸田湘煙(1864-1901)』の塾へ入る。
十六歳で京都府立最初の女学校女紅場一期生として入学。
二十歳で京都府立女学校女札・裁縫科を卒業。
女紅科修行中に養蚕製糸し織り上げた絹を裁縫した單袴を『京都府博覧会』に出品し褒章を受けた。
明治十五年(1882年)から五年間『小川小学校』の準訓導として勤務。
この間に父『中村家八代/中村宗哲』を亡くし、翌明治十八年(1885年)に同じく小学校訓導であった『松崎喜三郎』を『中村家九代/中村宗哲』として迎え三男四女を生む。
また自宅で裁縫の教授をし、千家宗匠方の着物十徳などを縫い苦境の家業を支えた。
五十歳で夫『中村家九代/中村宗哲』を亡くし、跡目相続の長男も退き別居した後、十五歳の次男『忠蔵』を『中村家八代/中村宗哲』弟子の元で修行させる。
『表千家十二代/惺斎敬翁宗左(1863-1937)』から【尼塗り】として勤めるよとお力添えもあり家業に精励した。
『表千家十二代/惺斎敬翁宗左(1863-1937)』は茶の静かで高潔な意匠をご教示され、それに叶う意匠をと製作計画に心を傾けた。
製作は嗣子『忠蔵』と職人衆があたり、時恰も大正の盛期にはいる。また大正八年(1919年)には明治維新の頃に立ち退きを余儀なくされていた旧地旧宅に復した。
大正十四年(1925年)次男『忠蔵』の成長にともない【中村家】の家督を譲る。
作品
『表千家十二代/惺斎敬翁宗左(1863-1937)』お好みの作品を多く作る。
茶器は「大棗」、「中棗」、「平棗」、「吹雪」、「金林寺」、「飯器型」などの「塗」、「手法」、「モチーフ」に変化をもたらせたもの約五十八種があり「夕顔大棗」百個や「近江八景棗」など多作である。「棗」以外の道具を見ると「香合」は二十七種、「水指」は「エゾ絵」、「野菊黒絵広口」など十種。「棚」は「青漆爪紅四方棚」など五種。「炉縁」は「ミル貝紅溜塗」など八種など七十六種に及ぶ。
また「雛用柳桜懐石家具一式」を始め「家具」は二十四種・菓子器類二十種など繊細な意匠の作を家元や数寄者に納品された。

享年
大正十五年(1926年)二月十四日没。享年六十五歳。