東京都世田谷区太子堂にて濱田篤哉、晋作の扁壷、柿右衛門額皿、反物など。

   

東京都世田谷区太子堂にて濱田篤哉、晋作の扁壷、14代柿右衛門(窯)の額皿、反物などをお売りいただきました。

お片付け業者様のご紹介で、お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。反物や陶器などをご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は濱田篤哉 糖釉鉄絵扁壷、濱田晋作 柿釉赤絵扁壷、十四代 酒井田柿右衛門 錦 栗鶉文 額皿など作家物の陶器、反物数点。反物は牛首紬、作家物の友禅など。陶器は益子焼、九谷焼など多数ございました。糖釉鉄絵扁壷は益子焼の物故作家 濱田篤哉(1931-1986)の作品。人間国宝 濱田庄司の三男。土の柔らかな味わいと肉厚でどっしりとした重量感、糖釉独特の色味に鉄絵の絵付けが施された、益子焼らしい素朴で温かな印象の作品です。柿釉赤絵扁壷は益子焼の作家 濱田晋作(1929-)の作品。人間国宝 濱田庄司の次男。柿釉独特の色味に赤絵の絵付けが施され、こちらもまた益子焼らしい素朴で温かな印象の作品です。こちらの二点は人間国宝となられた浜田庄司を父に持つ兄弟の作品となります。どちらも共箱にしまって保管されており、状態も良かったです。14代柿右衛門(窯)の額皿は栗鶉の絵図。柿右衛門窯は、日本初の赤絵の技法を開発し、その『柿右衛門様式』を現代に伝える由緒ある窯元です。作品の大きな特徴の一つに「濁手素地」と呼ばれる、柔らかく温かみのある乳白色の素地があげられます。どの作品も、繊細で華やかな色絵が魅力的です。江戸時代より伝わる技術を継承しながらも次世代への新しい展開を見せる柿右衛門窯の一品です。他にも作家物の九谷焼など、多数お売りいただきました。お引越し先に飾る場所がなく、今回泣く泣くのご売却とのこと。査定を頑張らせていただきました。大切にされていたお品々、大事に次へと繋げさせていただきます。本日は六角堂のご指名、たくさんのお品をお売りいただき有難うございました。
倉庫へ戻る途中、戸田市にある「らあめん花月嵐」へ寄りました。今日は期間限定メニューの「戦国武将らあめん前田利家」をいただきました。なんとも古物商好みの名前でございます。戦国時代に兵糧として重宝されていた味噌。1583年(天正11年)に前田利家が金沢城主になってから、加賀藩でも軍用の貯蔵品として味噌が盛んにつくられるようになりました。それが「加賀味噌」の起源といわれております。加賀味噌で造られた戦国武将らあめん、濃いスープに太麺が良く合い、とても美味しかったです。金沢の車麩におてまり麩もスープによく合います。歴史を感じる、美味しいラーメンでした。

濱田晋作(はまだしんさく)
1929年 人間国宝の濱田庄司の次男として生まれる。
1950年 早稲田大学卒業、父の工房で作陶修行を開始。
1963年 父やバーナードリーチのアメリカ陶芸講習巡遊に助手として参加。
1978年 国画会会員となる、財団法人益子焼参考館館長に就任。
1992年 同会を退会。
1982年 作品が外務省に買い上げられる。
1986年 作品がニューヨーク・ブルックリン美術館に買い上げられる。
1987年 サロン・ド・パリ展で大賞受賞。サロン・ド・パリ会員となる。
2008年 栃木県文化功労者の称号を受けました。
鉄釉、灰釉、柿釉、塩釉等の素朴で味わいのある民芸陶器を継承し、父・浜田庄司やバーナード・リーチの公的鑑定家としても知られています。

濱田篤哉(はまだあつや)1931年-1986年
陶芸家。兄の濱田晋作、その息子の濱田友緒も陶芸家。
1931年 人間国宝の濱田庄司の三男として栃木県益子町に生まれる。
1948年 栃木県立真岡高等学校卒業、父の弟子となる。
1957年から1959年にかけ、イギリスのバーナード・リーチの工房(セント・アイヴス)に在籍。
1971年から毎年、日本橋三越で個展を開催。
1979年 益子町大沢に窯と工房を建設。
1986年 逝去。55歳。