月別アーカイブ: 2016年10月

愛知県名古屋市中区にて、お茶道具や贈答品、平川敏夫のスケッチ画をお売りいただきました。

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愛知県名古屋市中区にて、お茶道具や贈答品、平川敏夫のスケッチデッサン画をお売りいただきました。

先日京都出張の帰りに名古屋へと寄り買い受けさせて頂きました平川敏夫のスケッチ画になります。スケッチ画でしたが、人気作家の作品ですので、精一杯の頑張り査定で買い受けさせていただきました。お母様の思い出のお品とのことで、次の方へと大事に繋げさせていただきます。

平川敏夫絵画作品の高価買い取り、査定・鑑定・出張買取りを致します。
六角堂では「平川敏夫」先生の作品を探しております。
ご所蔵の作品(リトグラフ、陶額も高額買受致します。)がございましたら、
無料にて誠意査定評価のうえ、即金で高価買取りさせていただきます。
平川敏夫作品の正当な評価での売却をご希望の方は、是非六角堂まで!

絵画においては、絵画の端にサインや落款がある場合に、査定の際、高額買い取りの成立につながる可能性がございます。六角堂では日本画、油絵、水彩画、水墨画、リトグラフ、シルクスクリーンなど、あらゆるジャンルの絵が買取り対象です。豊富な経験と見識のあるスタッフがご対応させて戴きます。お客様のご意向を尊重し、ご満足いただけるように精一杯頑張ります。
弊社では、査定・出張の際に手数料をご請求することは一切ございませんので、ご安心ください。

平川敏夫 (ひらかわとしお)

1924年 10月16日 愛知県宝飯郡小坂井町に生まれる。

小学4年の時、足に大けがをして1年間の療養生活を送り、中学進学を断念。白い障子に墨絵を描くほどの絵好きだったことから、京都の縮尺図案家・稲石武夫に弟子入り、1年の修行生活で基礎を学ぶ。
1950年 創造美術展に初入選。
1954年 「月庭」他が第18回新制作展で新作家賞受賞。
1958年 新作家賞受賞。
1960年 伊勢湾台風の翌春、白骨化した木々が芽吹いているのを見て自然の生命力に感動、「白樹」を描いて以来、幻想的な”樹のシリーズ”が始まる。
1962年 新作家賞受賞。初渡欧。
1969年 近代日本画名作展(モスクワ)に招待出品。
1972年 この頃から、樹の魂をオーバーラップさせる塔を描き始め、広く知られるようになる。鮮烈な赤を主調色とした樹林と塔の連作は約10年続くが、黄山をテーマに水墨画を制作して以来、自然の大きな姿を水墨による精緻な白抜き描法を駆使して写し続け、神秘が潜む新しい白と黒の表現世界を切り拓いている。
1974年 創画会発足、特異な作風をもって同会会員として活躍、今日に至る。
1978年 大阪大丸で毎日新聞社主催<平川敏夫作品展>開催。
1979年 最初の訪中。現代日本絵画展に招待出品。
1980年 中日文化賞受賞。
1981年 名古屋丸栄で中日新聞社・東海テレビ放送主催<樹々と塔で描く日本の美-平川敏夫展>開催。
1982年 日本秀作美術展に招待出品。
1983年 愛知県教育委員会文化功労賞受賞。
1985年 東海テレビ文化賞受賞。名古屋松坂屋他で<山と水・平川敏夫水墨画展>開催。
1988年 銀座・フジヰ画廊で<平川敏夫・季風墨画展>開催。
1989年 ユーロパリア’89現代日本画展(モスクワ)に招待出品。現代日本絵画展(北京・故宮博物院)に招待出品。
1990年 豊橋市美術博物館において回顧展開催。
1994年 松坂屋美術館で平川敏夫屏風展開催。
2006年 5月14日、歿。81歳

 

東京都西東京市にて、伝統工芸士吉沢昭次作加茂総桐箪笥。

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東京都西東京市にて、伝統工芸士吉沢昭次作加茂総桐箪笥をお譲りいただきました。

お荷物の整理にてお呼びいただきました。正面、天板、袴にシミ汚れがございましたが、人気の加茂たんすでしたのでお客様にご満足いただける価格にて買い受けさせていただきました。こちらは天丸の下三大洋というスタンダードのタイプのもので六角堂でも数多く扱う桐たんすになります。

六角堂では、桐箪笥の買取りを強化しております。桐タンスには、和たんす(衣装たんす)、洋服たんす、整理たんす(昇りたんす)、小袖たんす、チェストなどがございますが、六角堂では全て買取対象となっております。また、新潟県の加茂桐タンス、埼玉県の春日部桐タンス、愛知県の名古屋桐タンス、大阪府の泉州桐タンス、和歌山県の紀州桐タンスなどのブランド桐タンスを強化買取しております。ブランド桐タンスに関しましては、高価買い受けさせていただきますので、お早めにご相談ください。他にも和家具、民芸家具をはじめ、デザイナーズ家具、各種ブランド家具まで、幅広く買い取りしておりますので、ご売却をお考えの際には、六角堂をご指名ください。

六角堂出張地域
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世田谷区・港区・中央区・渋谷区・杉並区・目黒区・千代田区・大田区・品川区・新宿区・文京区・豊島区・中野区・練馬区・足立区・荒川区・板橋区・江戸川区・葛飾区・北区・江東区・墨田区・台東区
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山梨県、栃木県、群馬県、茨城県、福島県、長野県、新潟県、静岡県
その他、箱根、伊豆方面や軽井沢にも無料にて出張致しております。お茶道具や骨董品に関しては全国出張致します。お気軽にご相談ください。

『伝統工芸士』は、経済産業大臣指定伝統的工芸品の製造に直接従事する者を対象に、財団法人伝統的工芸品産業振興協会が実施する伝統工芸士認定試験において、実技試験及び知識試験に合格した者をいい、経済産業大臣認定資格制度により『伝統工芸士』の称号が得られます。受験資格は、伝統的工芸品の製造に現在も直接従事し、12年以上の実務経験年数が必要になります。

『加茂桐箪笥伝統工芸士』(物故作家含む) 田澤謙介 吉沢昭次 頓所芳男 皆川新司 東樹義明 番場堅介 中山昌二 坪谷哲男 三本和好 山本隆 鈴木浩市 水科政明 皆川繁之 横山松雄 番場堅 大橋勉 金井国男 鈴木進 神保良雄 石井克彦 高橋浩人 高橋聡 高橋研二 野本光男 藤田隆二 坂井昭兵 阿部健 斉藤敬二  江部雅之 大関正 堀正和 小柳幸太郎 小池茂次

神奈川県相模原市にて和家具や掛軸、茶道具、人間国宝 藤原啓造 備前平水指(裏千家15代家元鵬雲斎書付)をお売りいただきました。

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神奈川県相模原市にて和家具や掛軸、茶道具、人間国宝 藤原啓造 備前平水指(裏千家15代家元鵬雲斎書付)をお売りいただきました。

こちらは人間国宝 藤原啓作備前鉦鉢に塗り蓋を付けて平水指として使われておりました。共箱裏には茶道裏千家前家元15代汎叟宗室鵬雲斎(ほううんさい)の書付がございます。若干なおしなどございましたが、人気作家のお品ですので、お客様にご満足いただける価格にて買い受けしました。

六角堂では茶碗、水差 、棗、茶入、香合、風呂、釜、花入、茶杓、菓子皿、銀瓶、鉄瓶、 茶棚、炉縁などのお茶道具を強化買取しております。裏千家、表千家、武者小路千家、裏千家久田家、表千家堀内家、藪内家、遠州流、宗偏流、松尾流、江戸千家、大日本茶道学会などのお道具、作家物からお稽古用まで、お茶道具に関して幅広く取り扱っております。お茶道具の専門スタッフか、お見積もりに伺います。たくさんのお問い合わせお待ちしております。

藤原啓(ふじわらけい 明治32年(1899)2月28日~昭和58年(1983)11月12日 84才)
岡山県備前市穂浪に農業を営む藤原伊三郎、世為の三男として生まれる。

1938年:三村梅景に師事し備前陶芸の道を歩み始める。当時40歳という遅いスタート。
1948年:国認定の技術保存資格者(丸技)の資格(備前焼では他に金重陶陽、山本陶秀のみ)を受けたのを機に作陶への生涯を決意する。金重陶陽や北大路魯山人らからも指導を受け、技術向上に邁進。特に金重陶陽が先駆となった古備前復興の継承に尽力。桃山古備前の技法を基礎にしながらも、窯の中での自然の変容を生かした近代的な造形が特徴である。師である金重とは対照的で素朴で大らかな作品が、古くから受け継がれた備前焼の新たな展開を示し、後進へ大きな影響を与えた。
1954年:北大路魯山人の斡旋で日本橋高島屋にて個展を開く。同年、岡山県指定無形文化財「備前焼」保持者に認定。
1958年:日本工芸理事に就任。
1962年:プラハ国際陶芸賞を受賞した。
1970年:重要無形文化財「備前焼」保持者に認定。
1972年:勲四等旭日章を受章。
1976年:備前市名誉市民となる。同年備前市には財団法人藤原啓記念館が設立されており、藤原啓自身の作品や数々の古備前を展示している。
1983年:逝去。同日、勲三等瑞宝章を受章。

十五代 汎叟宗室 鵬雲斎(ほううんさい、1923年(大正12)~(現在))
本名は政興(幼名)、宗室、玄室   裏千家15世家元 汎叟宗室

1923年 4月19日、裏千家14代家元碩叟宗室の長男として産まれる。
1943年 学徒出陣により第14期海軍予備学生として海軍に入営。
1945年 特別攻撃隊(通称・特攻隊)に志願。10月、終戦に付き除隊。同志社大学法経学部経済学科に復学。
1946年 同志社大学卒業。
1949年 大徳寺管長後藤瑞巌老大師につき得度。斎号鵬雲斎を授く。
1950年 ハワイ大学に修学。
1959年 日本青年会議所会頭に就任。
1964年 父宗室死去により千利休居士15代裏千家今日庵家元宗室襲名。
1993年 立命館大学客員教授
2002年 長男に家元継承。玄室に改名。
2006年 源氏物語千年紀のよびかけ人となる。
2012年 ユネスコ親善大使に任命される

東京都台東区日本堤にて、唐物の火鉢や水盤、山水図の彫りが入った唐木紫檀の飾り棚。

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東京都台東区日本堤にて、唐物の火鉢や水盤、山水図の彫りが見事な唐木紫檀の飾り棚をお譲りいただきました。

六角堂では、花梨や紫檀、黒檀やタガヤサンなどの唐木で出来た中国家具を探しております。唐木とは中国家具に使われている紫檀・黒檀、白檀や黄花梨などの木材のことで日本での呼び方を指しており本来は紅木といわれます。遣唐使が唐から持ち込んだことから唐木と呼ばれるようになりました。唐木は虫に強いため、かなり古い時代から家具の材料として中国では使われてきました。清の時代になり、唐木家具にはさらに装飾が施されるようになったとされています。中でも数100年前のものは制作に大変な時間と手間がかかっているため、中国骨董の中でも特に高い値で売買されている一品です。ご不要になった唐木で出来たキャビネット、飾り棚、テーブル、椅子、文机、花台、香炉台などがございましたら、是非六角堂までお問い合わせください。「これは中国家具かな?買ってもらえるのかな?」と疑問に思う家具がございましたら、お気軽にお問合せ下さい。中国家具以外にも、桐タンスや古い和家具、英国アンティーク家具や北欧家具など、幅広く買取りしております。出張費などの費用を頂く事は一切行っておらず、買い取りが不成立の場合でも、査定料などの費用を頂く事は一切ございません。安心して六角堂までお問い合わせください!

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川崎市(川崎区・幸区・中原区・高津区・宮前区・多摩区・麻生区)
横須賀市・鎌倉市・逗子市・葉山町・茅ヶ崎市・藤沢市など湘南地域、平塚市・小田原市ほか
千葉県
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埼玉県 さいたま市(旧・大宮市/浦和市)・川越市・川口市・所沢市・越谷市など
その他、箱根、伊豆方面や軽井沢にも無料にて出張致しております。商品の内容や量によっては全国出張致します。お気軽にご相談ください。

東京都渋谷区宇田川町にて油彩画やリトグラフなどの絵画、人気彫刻家舟越保武のブロンズ像「ローラ」をお売りいただきました。

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東京都渋谷区宇田川町にて油彩画やリトグラフなどの絵画、人気彫刻家舟越保武のブロンズ像「ローラ」をお譲りいただきました。

言わずと知れた人気彫刻家舟越保武のブロンズ像を買い受けました。これまで、舟越氏の作品「少女A」「S嬢」などを数多く買い受けましたが、今回のお譲り頂いた作品は「ローラ」になります。

この女性像のモデルは、スペインを訪れたときに親しくなった経済学者の娘ローラ。舟越は彼女自身を前にして石を彫っていったのではなく、あら かじめ用意したスケッチや写真によりながら制作を進めた。その後毎年送られてくる彼女の写真をもとに「LOLA」は何体も作られた。少女から大人へと変化 成長していくローラの姿とともに、この彫刻家の作風の変化も追うことができる。
1987年に脳梗塞で倒れた後、ある作品集のために寄せた舟越保武の短いエッセーには、自分の彫刻が存在するということへの省察が記されている。自らの考 えの尺度にそって制作を進めることの愚かさ、種々の煩悶や苦痛を仕事に影響させてはいけない、彫刻を作る職人としてすべての煩わしさから自分を解放して仕 事をしようと。そこからさらに、人は自らでは計り知れないものによって支えられるものであるならば、風に吹かれて流れ去る野の花ように自身も同じ運命をた どり、なすべき特別なことは何もない、という思いに達する。
「LOLA」が作られるようになってから、彼の作る女性像の眼差しは現実から人の心へと向けられ始めているようである。

六角堂では「舟越保武」先生の作品を探しております。
ご所蔵の作品がございましたら、
無料にて誠意査定評価のうえ、即金で高価買取りさせていただきます。
舟越保武作品の正当な評価での売却をご希望の方は、是非六角堂まで!
ブロンズを含む彫刻作品をお見積りの際には、詳しい鑑定士が査定させていただきます。他にも時代家具、古道具、骨董・美術品をご処分の際には、六角堂までお問い合わせください。

舟越 保武(フナコシ ヤスタケ)1912~2002

1912年、岩手県二戸郡一戸町小鳥谷生まれ。父親が熱心なカトリック信者だった。県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)在学中(同期に松本俊介)に高村光太郎訳の「ロダンの言葉」に感銘を受け、彫刻家を志す。1939年 東京美術学校(後の東京藝術大学)彫刻科を卒業。このとき出会った佐藤忠良とは終生の友情を培うことになり、二人は戦後の日本彫刻界を牽引していく。

卒業後、独学で石彫をはじめ、数々の作品を発表して注目される。1950年、長男が生まれて間もなく急死したのを機に、自らも洗礼を受けてカトリックに帰依、キリスト教信仰やキリシタンの受難を題材とした制作が増える。1967年から1980年の間、東京芸術大学教授を勤める。その後、多摩美術大学教授を勤めた。1986年、東京芸術大学名誉教授に。1987年、脳梗塞で倒れ、右半身が不自由になったが、すぐにリハビリを開始。死の直前まで左手で創作を続けた。2002年2月5日、多機能不全で死去。89歳だった。

東京都国立市にて、横浜ダニエルの家具やブランド洋食器、人気画家東郷青児のリトグラフ「赤い塔」をお売りいただきました。

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東京都国立市にて、横浜ダニエルの家具やブランド洋食器、人気画家東郷青児のリトグラフ「赤い塔」をお譲りいただきました。

東郷青児絵画作品の高価買い取り、査定・鑑定・出張買取りを致します。
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山梨県、栃木県、群馬県、茨城県、福島県、長野県、新潟県、静岡県
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国立市出張地域は、青柳、石田、泉、北、中、西、東、富士見台、矢川、谷保

東郷青児(とうごうせいじ) 略歴

1897年 鹿児島市に生まれる。
1921年 フランスに留学、リヨン美術学校に学ぶ。未来派のマリネッティをトリノに訪ね、未来派運動に参加。
1928年 帰国し、二科展に23点を特別陳列する。
1930年 ジャン・コクトーの「怖るべき子供たち」を翻訳、白水社より刊行。
1931年 二科会の会員となる。
1938年 二科会に「九室会」が結成され、藤田嗣治と共に顧問になる。
1945年 終戦後の二科会再建に尽力。
1948年 東京歌舞伎座の緞帳「女の四季」を手掛ける。
1960年 日本芸術院入会。
1976年 東郷青児美術館開設。勲二等旭日重光章受章。フランス政府より文化勲章受章。
1978年 死去。文化功労者、正四位追贈。

群馬県前橋市にて、総桐たんす、お着物、人間国宝 十三代酒井田柿右衛門の錦唐人物文額皿をお売りいただきました。

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群馬県前橋市にて、桐たんす、お着物、人間国宝 十三代酒井田柿右衛門の錦唐人物文額皿をお譲りいただきました。

お引越し前の整理にて、お呼びいただきました。人気作家のお品でしたので、お客様にご満足いただける高額査定で買い取りさせていただきました。他にも桐たんす、お着物、,掛け軸、置物などを買い受けいたしました。有難うございました。六角堂は、東京都内はもちろん、関東一円出張見積無料、鑑定無料です。ぜひご利用ください。

13代 酒井田柿右衛門 1906(明治39)年~1982(昭和57)年
13代酒井田柿右衛門は12代酒井田柿右衛門の長男として佐賀県に生まれました。
本名を渋雄といいます。
1924(大正13)年、有田工業学校製陶科を卒業しました。
1953(昭和28)年、父と濁手素地の復興に成功しました。
1955(昭和30)年に「柿右衛門」の製陶技術が文化財保護委員会より、
記録作成等の措置を構ずべき無形文化財として選択を受けました。
1963(昭和38)年、13代酒井田柿右衛門を襲名しました。
一水会審査員に就任しました。
1964(昭和39)年、日本工芸会正会員となりました。
1966(昭和41)年、佐賀県文化功労者に選択されました。
「柿右衛門」の陶芸技法が佐賀県重要無形文化財に指定されました。
濁手草花文蓋物が宮内庁に買い上げられました。
1967(昭和42)年、佐賀県重要無形文化財に認定されました。
1969(昭和44)年、皇居新宮殿に濁手瓢形壷一対を制作しました。
1970(昭和45)年、佐賀県陶芸協会会長に就任しました。
濁手菊鳥文壷が外務省に買い上げられ、サンパウロ日本館に展示されました。
1971(昭和46)年、13代を会長に上級技術者11人で柿右衛門製陶技術保存会を設立します。
これは素地の調製から作品完成に至るまでの工程を江戸時代以来の分業による集団体制で、
伝統の濁手によって柿右衛門様式を制作する技術保持を目的とした団体です。
技術保存会による「濁手」の技法が重要無形文化財として総合指定を受けました。
濁手露草文鉢等が宮内庁に買い上げられました。
東宮御所の御用食器を納入しました。
濁手花鳥文陶額がオランダ日本大使館展示品として外務省に買い上げられました。
1972(昭和47)年、紫綬褒章を受章しました。
1974(昭和49)年、迎賓館に濁手梅花文壷を制作しました。
1975(昭和50)年、西日本文化賞を受賞しました。
濁手草花文鉢と濁手椿文壷が文化庁に買い上げられました。
1976(昭和51)年、柿右衛門製陶技術保存会が技術保持団体として認定されました。
1978(昭和53)年、勲四等旭日小綬章を受章しました。
1982(昭和57)年、有田名誉町民の称号を受けました。
個人作家として新しい柿右衛門の確立を目指した13代は、
伝統を墨守し続ける頑固な父の方針に不満を持ち、
お互いの方向性の違いから親子喧嘩が絶えなかった事でも有名です。
この父より受け継がれた職人気質を基礎に現代様式の柿右衛門を創造すべく、
日本画家、彫刻家、芝居役者、政治家、実業家等のあらゆる分野の人々と交流を深め、
近代的な独自の新意匠を取り入れた新境地を築き上げました。
頻繁に全国各地の野山へ出掛けては膨大な量のスケッチを取った事でも知られており、
こうして図案化されたものが濁手素地の上に彩られました。
芸術作家としての柿右衛門の評価は13代の出現で不動のものとなりました。

東京都中央区新富にて、桐箪笥やお着物、お茶道具、初代三浦竹泉造黄磁蘭図の鉢をお売りいただきました。

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東京都中央区新富にて、桐箪笥やお着物、お茶道具、初代三浦竹泉造黄磁蘭図の鉢をお売りいただきました。

ただいま陶芸作品を探しております。六角堂の強化買取陶芸作家は以下となります。

青木龍山・浅倉五十吉・荒川豊蔵・安東五・池順鐸・石黒宗麿・伊勢崎淳・伊勢崎満・板谷波山・井上萬二・今泉今右衛門・今井政之・岩田久利・隠崎隆一・宇野宗甕・浦上善次・永楽善五郎・大樋長左衛門・大塩昭山・大塩玉泉・大塩昭山・大塩正人・大塩正義・大樋年朗・大淵武則・岡部嶺男・岡部靖彦・小川長楽・小川裕起夫・奥田木白・尾西楽斎・隠崎隆一・角谷一圭・各務満・加藤渓山・加藤光右衛門・加藤孝造・加藤卓男・金重陶陽・金子信彦・金重昇介・金重道明・金重素山・河井寛次郎・河合紀・河井武一・河合誓徳・河井透 河井久・河合紀・館林源右衛門・北大路魯山人・吉向十三軒・吉向翔平・吉向松月・木村盛和・清水六兵衛・金城次郎・楠部彌弌・久保木二朗・熊倉順吉・黒木国昭・鯉江良二・河野栄一・小山富士夫・近藤濶・近藤悠三・坂井岱山・酒井田柿右衛門・酒井田正・榊莫山・坂倉新兵衛・坂田泥華・三代徳田八十吉(正彦)・島岡達三・清水卯一・清水公照・清水潤・清水甫・清水保孝・尚古集成館 薩摩切子・新開寛山・杉田祥平・鈴木藏・須田青華・諏訪蘇山・高橋楽斎・田村耕一・帖佐美行・沈寿官・辻常陸・徳田八十吉・戸畑茂四郎・富本憲吉・豊場惺也・中里太郎右衛門・中島宏・中村晋也・バーナード リーチ・長谷川翠光・濱田晋作・濱田庄司・浜田昇児・林正太郎・藤田喬平・藤本能道・藤原恭助・藤原啓・藤原敬介・藤原建・藤原雄・真葛香斎・松田正柏・松本勝哉・三浦竹軒・三浦竹泉・宮尾造(宮尾栄助)・三輪休雪・柳海剛・矢部篤郎・山田常山・山田光・山田正和・山本一洋・山本陶秀・横山尚人・吉田隆・吉田美統・吉田文之・由水常雄・柳海剛・加守田章二・加藤土師萌・加藤唐九郎・加藤壽明・楽吉左衛門・館林源右衛門・岩田藤七・宮下善爾・畦元紀秀・高橋道八・坂高麗左衛門・三輪雪堂・守屋弘斎・小川二楽・仁阿弥道八・塚本快示・辻村史朗・藤原敬介・徳田八十吉・八木一夫・和太守卑良

初代 三浦竹泉(みうらちくせん) 1854(嘉永7)年~1915(大正4)年
初代三浦竹泉は畳屋・渡辺伊兵衛の次男として京都に生まれました。
名を政吉、通称を駒次郎・政、名を竹泉、号を有声居・篩月庵といいます。
3代高橋道八に師事し、1883(明治16)年に五条坂で独立しました。
創業当時は道八の門弟・治村松雨と合作し、「松雨竹泉」の銘を用いていましたが、
数年で関係を解消し、以後は「有声居」、1899(明治32)年からは「篩月庵」と号しました。
早くから出藍の誉れ高く、西洋彩色を日本磁器に応用した釉薬透明紋を開発しました。
1904(明治37)年に染付磁器に玉、貴石、珊瑚を挿入して彩色に応用する技法、
1907(明治40)年に黄色原料を釉薬に用いて淡黄地に浮き彫りを施す技法を発表し、
内外の展覧会やシカゴ、パリの万国博覧会等で称賛を博しました。
明や清時代の陶磁器に手本を求めた作品にも優れたものが確認されています。
煎茶を好んで当時の文人墨客との交友を重ねました。
画を田能村直入に学び、漢学にも造詣深く、
朱笠亭の『陶説』を訳述した『和漢対照陶説』を出版しました。

千葉県市川市のお引越し整理にて、時代家具や段通絨毯、人間国宝塚本快示(快山窯)の青白磁双魚文皿をお売りいただきました。

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千葉県市川市のお引越し整理にて、時代家具や段通絨毯、人間国宝塚本快示(快山窯)の青白磁双魚文皿をお譲りいただきました。

塚本快示は岐阜県出身の昭和から平成時代に活躍した日本の陶芸家。
重要無形文化財「白磁・青白磁」の保持者で、その作品は定窯の白磁・景徳鎮窯の青白磁の再現にはじまり、塚本快示の造形を加味した作風となっております。
中国磁器の持つ神秘的な美しさと日本的な優美さを併せ持つ発色と、白磁胎がまだ乾ききらないうちに鋼や竹のヘラで刻まれる片切り模様の精緻さで、日本国内だけでなく、中国陶磁界でも高い評価を得ています。

塚本快示(つかもとかいじ)

1912年 岐阜県土岐市製陶所の長男に生まれる
1926年 家業を手伝い以後、轆轤、釉掛、窯焚に従事
1950年 小山冨士夫を知り、以後指導を受ける
中国北宋時代の白磁や青白磁の研究を始める
1963年 日本伝統工芸展入選
1964年 米国カリフォルニア博覧会で金賞受賞
1965年 日本伝統工芸展奨励賞受賞
1972年 日本伝統工芸展会長賞受賞
1973年 岐阜県に青白磁技術保持者無形文化財に指定
1977年 紫綬褒章授章
1979年 日本陶磁協会賞授賞
1980年 中日文化賞受賞
1983年 重要無形文化財保持者とし認定される。土岐市名誉市民に推挙される
1984年 勲四等旭日章授章
1990年 死去

六角堂では、人間国宝、作家物の作品を強化買取りしております。
作家のないお品も多数扱っておりますので、ご処分される前に一度お問い合わせください。
たくさんのお問い合わせ、心よりお待ち申し上げます。
陶芸(人間国宝) 色絵磁器 - 富本憲吉、加藤土師萌、藤本能道、十三代今泉今右衛門、十四代酒井田柿右衛門 鉄釉陶器 - 石黒宗麿、清水卯一、原清 民芸陶器 - 濱田庄司 志野 - 荒川豊蔵 萩焼 – 三輪休和(十代三輪休雪)、三輪壽雪(十一代三輪休雪) 備前焼 – 金重陶陽、藤原啓、山本陶秀、藤原雄、伊勢崎淳 唐津焼 – 中里無庵 染付 – 近藤悠三 白磁・青白磁 -塚本快示 琉球陶器 - 金城次郎 鉄絵 - 田村耕一 練上手 - 松井康成 白磁 - 井上萬二 三彩 - 加藤卓男 民芸陶器- 島岡達三 青磁 – 三浦小平二、中島宏 彩釉磁器 - 三代徳田八十吉 常滑焼(急須)-三代山田常山 釉裏金彩(ゆうりきんさい)-吉田美統 無名異焼(むみょういやき)-五代伊藤赤水

東京都世田谷区成城にて、唐木の花台、香炉台、宣統(愛新覚羅溥儀)御筆書法「福寿」の掛軸をお売りいただきました。

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東京都世田谷区成城にて、唐木の花台、香炉台、宣統(愛新覚羅溥儀)御筆書法「福寿」の掛軸をお売りいただきました。

ラストエンペラーで有名な愛新覚羅溥儀の掛軸になります。清朝皇帝時代には、治世の元号から中国語で宣統帝と称されました。清朝滅亡後に日本政府の支持のもと満洲国の執政に就任、満洲国の帝政移行後は皇帝に即位して康徳帝と称し、満州国軍大元帥や満州国協和会名誉総裁などを兼任。満洲国の崩壊とともに退位し、赤軍の捕虜になる。その後中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所からの釈放後は一市民として北京植物園に勤務、晩年には中国人民政治協商会議全国委員に選出されました。
字は「耀之」。号は「浩然」。辛亥革命後の呼称としては、廃帝と国民党政府から呼ばれる一方、旧清朝の立場からは遜帝(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれました。末代皇帝(末帝)と呼ばれる場合もあります。

中国近代/現代作家の作品から明/清の時代の古い作品からまで取り扱っております。
斉白石 呉昌碩 張大千 黄胄 范曽 呉冠中 王一亭 李可染 程十髪 潘天寿 傅抱石 黄賓虹 丁衍庸 謝稚柳 任伯年 徐悲鴻 呉作人 鄭板橋 藍瑛 白雪石 高剣父 黄永玉 饒宗頤 李苦禅 祭国強 仇英 文徴明 楊守敬 張瑞図 趙之謙 石濤 董其昌 林風眠 董寿平 朱銘 郭沫若 劉海粟 張廣 王雪涛 王鐸 梁啓超 李士達 啓功 陳逸飛 陸厳少 林雪岩 呉湖帆 陳良敏 張善孖 陳政明 陳小梅 崔如琢 林墉 林加国 李唐 金農 方楚雄 林散之 王原祁 宋文治 傅山 任重 唐雲 沈鵬 康有為 周思聡 関山月 徐操 史国良 于右任 朱小元 孔紫 馬遠 蒋介石 曽国藩 郎世寧 関良 何家英 何紹基 羅振玉 林良 王石谷 陳半丁 劉松年 江寒汀 徐世昌 顔輝 高奇峰 虚谷 陳洪綬 蘇軾 銭松嵒 包世臣 袁暁岑 賴少其 傅山 來楚生 喻繼髙 蔡元培 孫文 石魯 任熊 任熏 梅蘭芳 亞明 王个簃 何海霞 朱屺瞻 黎雄才 吴青霞 倪田 陳佩秋 陸恢 趙雲壑 陳大羽 于非闇 关山月 黄幻吾 汪亜塵 蒲華 颜伯龙 程璋 关良 劉旦宅 丰子恺 陳曼生 彭先誠 蒲作英 周之林 林則徐 陸抑非などの作家の物は、高額買取りしております。ご処分の際には六角堂までお問い合わせください。

愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)

1906年:醇親王載灃の子として北京に生まれる
1908年:第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位
1912年:辛亥革命により退位
1917年:張勲復辟により清朝皇帝に復位するも、10日あまりで再び退位
1919年:イギリス人のレジナルド・ジョンストンを帝師として招聘
1922年:正妻の婉容、側室の文繍と結婚
1924年:クーデターにより紫禁城から退去。ジョンストンが帝師を退任
1925年:イギリスやオランダ公使館へ庇護を要請するものの拒否され、天津日本租界内張園に移転
1931年:文繍と離婚。満洲事変勃発後、大日本帝国陸軍からの満洲国元首への就任要請を受諾し、日本軍の手引きで天津を脱出、満洲へ移る
1932年:満洲国の建国に伴い満洲国執政に就任
1934年:満洲国皇帝(康徳帝)に即位
1935年:初の外国訪問として日本を公式訪問
1937年:譚玉齢を側室とする
1940年:日本を再び公式訪問、最後の外国訪問となる
1942年:側室の譚玉齢が死去
1943年:李玉琴を側室とする
1945年:満洲国の崩壊に伴い皇帝を退位し、その後日本への亡命途中に、侵略してきたソ連軍の捕虜になる
1946年:極東国際軍事裁判にソ連の証人として出廷させられる、正妻の婉容死去
1950年:中華人民共和国に身柄を移され撫順戦犯管理所に収容される
1959年:模範囚として釈放され、その後北京植物園を経て政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員会に勤務
1962年:李淑賢と再婚
1964年:中国共産党政治協商会議全国委員に選出される
1967年:10月17日北京で死去