カテゴリー別アーカイブ: 絵画・掛軸

東京都新宿区戸山にて原田泰治のオリジナル木版画、茶道具など。

東京都新宿区戸山にて原田泰治のオリジナル木版画(ジークレー)「たこあげ」、「ねむの花」、「子守唄の村」、茶道具などをお売りいただきました。

お荷物のお片付け整理でお呼びいただきました。桐たんすや茶道具をご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、原田泰治のオリジナル木版画(ジークレー)「たこあげ」、「ねむの花」、「子守唄の村」、茶道具、贈答品、和装小物、アクセサリーなど。トラック一台分、たくさんのお品をお売りいただきました。当社が買い取りへ伺う前に、買取業者が数社入っておりましたので、他社が残していかれたお茶道具などを買取させていただきました。黒土風炉は電熱器の付いた電熱風炉、本麻の茶巾、紙釜敷、伝統工芸士 久保良斎の茶筅など、お道具としては脇役となってしまいますが、全て買取させていただきました。共箱のない茶碗や水指なども数点ございましたが、こちらも全て買い受けさせていただきました。贈答品は食器や花瓶、漆器など。こちらも全て買取させていただきました。原田泰治のオリジナル木版画(ジークレー)は、「たこあげ」、「ねむの花」、「子守唄の村」の三点。原田泰治の作品は、本品のようにふるさとを題材にした日本の風景を描いており、平面的な塗り、人物の顔の目や口、鼻が描かれていないのが特徴的です。やや波打ちなどの難もございましたが、全体的に良い状態の作品です。お母様が大事にされていたお品々、大切に次へと橋渡しさせていただきます。本日はお忙しい中、六角堂をご指名くださり誠に有難うございました。

原田泰治(はらだたいじ)1940年~
1940年 長野県諏訪市上町で生まれる。
1960年 武蔵野美術大学洋画科に入学、油彩画を学ぶ。翌年、商業デザイン科に再入学する。
1963年 武蔵野美術大学商業デザイン科卒業。デザイナーとして活動する。
1980年 第29回小学館絵画賞受賞
1982年 朝日新聞日曜版に「原田泰治の世界展」を連載開始/並行して全国で個展開催
1989年 アメリカ合衆国各地で展覧会を開催
1997年 長野冬季オリンピック競技大会での文化芸術祭に参加
1998年 諏訪湖のほとりに諏訪市原田泰治美術館がオープン
2000年 日本の全国各地20か所で「日本の童謡・唱歌100選展」開催
2008年 上田電鉄1000系電車のラッピング車輌「自然と友だち」のデザインを担当
2009年 日本グラフィックデザイナー協会会員
2009年 クロアチア共和国ナイーブ美術協会名誉会員中国・上海金山農民画協会会員を務める
現在、日本グラフィックデザイナー協会会員、クロアチア共和国ナイーブ美術協会名誉会員、中国・上海金山農民画協会会員。

東京都八王子市にて小栗潮の日本画、友禅黒留袖、村上伸一郎の江戸小紋など。

 

東京都八王子市にて日本画家 小栗潮の風景画(高原)、友禅黒留袖、村上伸一郎の江戸小紋着物などをお売りいただきました。

業者様のご紹介でお荷物のお片付け整理でお呼びいただきました。絵画やお着物などをご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただきましたお品は、日本画家 小栗潮の風景画(高原)、友禅黒留袖、村上伸一郎の江戸小紋着物、訪問着や帯、和装小物など。たくさんのお品をお売りいただきました。小栗潮は佐川県出身、昭和~平成の日本画家。花鳥・風景画を主に描かれております。こちらの他にも油彩画、リトグラフなど、たくさんの絵画をお売りいただきました。お着物が多くございましたが、残念ながら全体的にシミや汚れが出てしまっておりました。状態にやや難有でしたが、ウール、喪服以外は全て買取させていただきました。作家物のお着物も数点ございました。お売りいただきましたお品々、大切に次へと橋渡しさせていただきます。本日はお忙しい中、六角堂のご指名ありがとうございました。

小栗潮(おぐりうしお)1921年(大正10年)3月11日 ~
佐賀県西松浦郡有田町生まれ。山口蓬春、山本丘人ら、に師事。
1944年 東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科卒。同年学徒出陣。
1947年 第一作「不忍池」が院展入選。
1956年 日展に所属、同年「尾瀬沼畔」入選。
1957年 第13回日展にて「尾瀬沼」で特選。
1962年 第5回日展特選。
1965年 第8回日展菊華賞。
1991年 第23回日展文部大臣賞。
現在、日展参与。

東京都北区滝野川にて山下清のリトグラフ、近代日本名画撰、銀製や九谷焼の置物。

東京都北区滝野川にて山下清のリトグラフ「二重橋」、手摺木版画 近代日本名画撰、関武比古の銀製帆前船、九谷焼七福神の置物などをお売りいただきました。

先日お呼びいただいたお客様宅へ、再度出張買取させていただきました。お売りいただくお品の数が多く、前回積み残したお品や、新たに出てきましたお品の査定、買い取りをさせていただきました。お売りいただいたお品は、山下清のリトグラフ「二重橋」、手摺木版画 近代日本名画撰、関武比古の銀製帆前船、九谷焼七福神の置物など。「裸の大将」「放浪画家」などと世の人々から親しまれ、日本中を放浪していたことで知られる山下清(やました きよし)。お売りいただいた作品は、二重橋と人々の姿を細かく生き生きと描いたリトグラフ(石版画)。状態の良い作品でした。版画は丹青社出版の伝統芸術古法純手摺木版画 近代日本名画撰 全12図のセットになります。近代日本画の巨匠【横山大観、安田靫彦、竹内栖鳳、小林古径、富岡鉄斎、児玉希望、上村松園、福田平八郎、徳岡神泉】ら9名の名画12作品が厳選され、伝統古法純手摺りによって再現された木版画集です。 こちらは残念ながら二作品の欠品がございました。関武比古の銀製帆前船、九谷焼七福神の置物はガラスケースに収められており、状態の良いものでした。お引越しでなるべくお荷物を減らしたいとのことでしたので、他にも家具や絵画、空の額、贈答品なども併せてお売りいただきました。トラック一台分、数多く買取することが出来、お客様にお喜びいただけました。お引越しまで今しばらくお片付けが大変かと思いますが、残り少し頑張ってください。二度にわたり六角堂をご指名くださり、誠に有難うございました。帰りにいただきましたお茶やシュークリーム、とても美味しかったです。ご馳走様でした。

山下清(やましたきよし)大正11年(1922年)~昭和46年(1971年)
大正11年、東京都台東区浅草に生まれる。小学生の時に千葉県市川市の知的障害者養護施設八幡学園に入園。学園では「ちぎり紙細工」に没頭する。その才能に周囲は驚かされる。昭和14年、八幡学園を脱走しリュックひとつの放浪の旅へと出る。旅で印象づけられた風景を貼絵にし、画家や文学者から絶賛される数々の傑作を制作。花火が好きだった清は、花火大会開催を聞きつけると全国に足を運び、その時の感動した情景をそのまま作品に仕上げている。驚異的な映像記憶力を持ち「花火」「桜島」など行く先々の風景を多くの貼絵にのこしている。旅先で絵を描くことはほとんどなく、八幡学園や実家に帰ってから記憶をもとに一気に描くというスタイルだった。昭和46年、死去。享年49歳

東京都練馬区石神井台にて掛軸、屏風、御所人形、古伊万里、はぎれなど。

 

東京都練馬区石神井台にて掛軸、巻物、屏風、御所人形、煙草盆、古伊万里、古ガラス、アンティークはぎれなどをお売りいただきました。

先日、お蔵の整理でお呼びいただきましたお客様から再度お呼びいただき、骨董品などを買取させていただきました。買取できるお品の数が多くあり、数回に分けての買取にしていただき、本日が二度目の出張買取となりました。本日お売りいただきましたお品は、掛軸、巻物、屏風、御所人形、煙草盆、古伊万里、古ガラス、アンティークはぎれなど。江戸から昭和初期にかけてのお品が保管されていたお蔵の蔵出し。お蔵の中は暗い為、ブルーシートを敷いていただき、蔵からお品を出しては並べての査定となりました。数が多くございましたが、一点一点丁寧に査定させていただきました。掛け軸は日本画、書、仏画など多数。江戸時代のものがおおくございました。屏風は日本画、巻物は書。残念ながらしまったままの状態でしたので、全体的に虫食いがひどく進んでいる状態でございました。古ガラスは戦前のグラスなど、何点かカケがありました。古伊万里は白磁の壷や煙草盆など。お人形は江戸期の御所人形など。御所人形は、朝廷の御慶事や御出産、御結婚など、祝祭事の際に飾られてきた人形。 江戸時代に西国の大名が参勤交代で江戸に赴く途中、京都の宮廷に立ち寄り、贈り物をした際の返礼としてこの人形が贈られ、宮廷や公家、門跡寺院等の高貴な人々の間で愛された人形であります。江戸時代末期には一般にも普及しました。幼童のあどけない姿を大きな頭と横ぶとりの丸々とした裸体で表現しています。桐材を用いて胡粉(ごふん)で膚を白くみがきあげます。本品のように江戸時代には人毛を使ったりしたものもございました。こちらもしまったままの状態でしたので、残念ながら毛が抜け落ち、肌地にひび割れなどございました。アンティークはぎれは明治から昭和初期のもので、色鮮やかなものや藍染のものなどございました。こちらは捨てようとされていたもので、こちらにも査定が付き、また次へと繋げることが出来、お客様にお喜びいただきました。お蔵に長年しまったままのお品ですので全体的に状態に難有りではありましたが、全て買い取らせていただきました。ご先祖様が残された大切なお品々、大切に次へと繋げさせていただきます。まだまだ時代家具や古伊万里などの古陶磁器、古書などがお蔵に眠っております。また近日お呼びいただけるとのこと、楽しみにお待ちしております。本日も帰りに美味しいお弁当をいただきました。そぼろがとっても美味しかったです。ご馳走様でした。本日も六角堂のご指名、誠に有難うございました。

千葉県松戸市にて平尾秀明の日本画、大山忠作のリトグラフ、着物、反物など。

 

千葉県松戸市にて平尾秀明の日本画「足柄の富士」、大山忠作のリトグラフ「双鶴富士」、着物、反物などをお売りいただきました。

不動産業者様のご紹介でお荷物のお片付け整理でお呼びいただきました。絵画やお着物などをご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただきましたお品は、日本画家 平尾秀明の絵画「足柄の富士」、大山忠作のリトグラフ「双鶴富士」、着物、反物など。たくさんのお品をお売りいただきました。こちらの他にも油彩画、リトグラフなど、たくさんの絵画をお売りいただきました。お着物がたくさん有り、作家物のお着物などもございましたが、残念ながら全体的にシミや汚れが出てしまっておりました。状態にやや難有でしたが、ウール、喪服以外は全て買取させていただきました。お売りいただきましたお品々、大切に次へと橋渡しさせていただきます。本日はお忙しい中、六角堂のご指名ありがとうございました。

平尾秀明(ひらおひであき)
昭和18(1943)年11月30日、岐阜県瑞浪市明世町山野内に生まれる。
明世小学校・明世中学校(当時)・岐阜県立瑞浪高校を経て、金沢美術工芸大学日本画科に進学。
昭和42(1967)年に、大学を卒業すると、瑞浪市を離れた。橋本明治、大山忠作に師事。
昭和56(1981)年、第13回日展特選
平成元(1989)年、第21回日展特選
現在は、日展特別会員・日春展会員として、日本画壇をリードしている。

大山忠作(おおやまちゅうさく)1922~2009
1922年 福島県二本松で生まれる。家業は紺屋で父も趣味で日本画を描いていた。
1943年 東京美術学校(現東京芸術大学)卒業。
1947年 山口蓬春に師事。
1952年 第8回日展特選・白寿賞(同1955年)および朝倉賞受賞。
1962年 初の個展開催。(銀座、文芸春秋画廊)
1967年 1968年にかけて、法隆寺金堂壁画再現模写に従事。
1973年 「五百羅漢」で日本芸術院賞受賞。
1984年 大山忠作襖絵展。(日本橋三越・福島県文化センター)
1986年 日本芸術院会員となる
1991年 日展事務局長を務める。その後、1992~1995年まで日展理事長を努める
1992年 成田山聖徳太子堂壁画展。(日本橋三越)
1996年 勲三等瑞宝章受章。
1999年 文化功労者。現在、日本芸術院会員、日展常務理事。
2009年 逝去

東京都北区滝野川にて若井良一の油彩画、大山忠作の石版画、男物の紬など。

    

東京都北区滝野川にて若井良一の油彩画「道」、大山忠作の石版画「双鶴」、大島紬など男物のお着物などをお売りいただきました。

お荷物のお片付け整理でお呼びいただきました。絵画やお着物などをご処分されたいとご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただきましたお品は、若井良一の油彩画「道」、大山忠作の石版画「双鶴」など絵画多数、大島紬や久米島紬など着物など。たくさんのお品をお売りいただきました。大山忠作は現代日本画壇の重鎮として日本の芸術文化の振興・発展に尽力した画家。鯉を描く画家として有名です。他にも油彩画、リトグラフなど、たくさんの絵画をお売りいただきました。お着物は男物が多くございました。紬や袴など、多数お売りいただきました。シミ汚れの出てしまっているものもございましたが、ウール、喪服以外全て買取させていただきました。本日積みきれなかった絵画や家具など、来週再度出張買取させていただくこととなりました。次回もよろしくお願い致します。本日はお忙しい中、六角堂のご指名ありがとうございました。

大山忠作(おおやまちゅうさく)1922年 〜 2009年
1922年 5月5日、福島県二本松市に生まれる
1943年 学徒出陣のため、東京美術学校を繰り上げで卒業
1946年 台湾から復員後の第2回日展で「O先生」が初入選
1947年 山口蓬春に師事
1952年 第8回 日展で「池畔に立つ」が初の特選、同時に白寿賞・朝倉賞を受賞
1955年 第11回日展で「海浜」が特選・白寿賞を受賞
1961年 日展会員となる
1967年 法隆寺金堂壁画再現模写に従事
1968年 第11回新日展で「岡潔先生像」が文部大臣賞を受賞
1973年 「五百羅漢」が日本芸術院賞に選ばれる
1980年 成田山新勝寺光輪閣襖絵第1期「日月春秋」28面を完成
1984年 成田山新勝寺光輪閣襖絵第2期「杉」「松」「竹」22面を完成
1986年 日本芸術院会員となる
1987年 二本松市名誉市民に選ばれる
1992年 成田山新勝寺聖徳太子堂壁画「白鷺」「蓮」「桜」「牡丹」「菊」「楓」6面を完成。日展理事長に就任
1993年 画業50年記念展を、東京・大阪・仙台・横浜で開催
1996年 勲三等瑞宝章を賜る
1999年 文化功労者として顕彰される
2005年 日展会長に就任
2006年 文化勲章を受章
2007年 新宿区名誉区民に選ばれる
2009年 2月19日、逝去。享年86歳。10月1日、大山忠作美術館(二本松市市民交流センター)開館

若井良一(わかいりょういち)1940年生まれ。栃木出身。1973年三軌会会員となる。現在無所属、日本美術家連盟会員、古川美術館作品収蔵。元三軌会員審、文部大臣奨励賞、安田火災奨励賞、他多数受賞。油絵大賞展入選、安井賞展入選。ブロードウェイギャラリー他個展。参考、2009年美術年鑑に号15万8千円で掲載。

埼玉県さいたま市大宮区にて竹内栖鳳などの掛軸、ちりめんなどの反物。

  

埼玉県さいたま市大宮区にて竹内栖鳳などの掛軸、ちりめんなどの反物をお売りいただきました。

数か月前にお呼びいただきましたお客様から、掛け軸や反物などがまだ出てこられたとのことでご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。本日お売りいただいたお品は、竹内栖鳳などの掛軸、ちりめんなどの反物、洗い張りの生地など。掛け軸は竹内栖鳳の花鳥図「柳鷺図」(二重箱)、赤松雲嶺、中倉玉翠の四季を描いた四幅対など。残念ながら赤松雲嶺は一本欠品しておりました。多少のシミはあるものの、全て買取させていただきました。反物は古代苑の浜ちりめん、扇昌の丹後ちりめんなど。こちらはシミ汚れも良く、保管状態の良いものでした。他にも洗い張りの生地なども併せてお売りいただきました。二度にわたり六角堂をご指名いただき、ありがとうございました。

竹内栖鳳(たけうちせいほう)1864(元治元)~1942(昭和17)
1864年、京都府京都市中京区の川魚料理屋「亀政」の一人息子として生まれました。本名恒吉。1877年(明治10年)に四条派の土田英林に絵を習い始めるが、1881年(明治14年)の17歳の時に同派の名手として知られた幸野楳嶺の私塾へ正式に入門する。この頃から頭角を現し、翌年には私塾の工芸長となり、「楳嶺四天王」(栖鳳と都路華香、谷口香嶠、菊池芳文の高弟4名を指す)の筆頭と呼ばれるようになりました。1887年(明治20年)、23歳の時に結婚し、これを機に絵師として独立する。同年、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)修了。1889年(明治22年)には京都府画学校に出仕し、京都の若手画家の先鋭として名をあげていきます。1891年(明治24年)山元春挙、菊池芳文らと青年画家懇親会を興す。1899年(明治32年)京都市立美術工芸学校の教諭に就任。1900年(明治33年)36歳の時に7ヶ月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受ける。帰国後、雅号を栖鳳と改める。1909年(明治42年)京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)の教諭に就任。1913年(大正2年)に「帝室技芸員」に推挙されることで、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立されました。1919年(大正8年)帝国美術院会員。1920年(大正9年)と1921年(大正10年)の二度にわたって東洋画の源流を訪ねるために中国へ旅行し、代表作で重要文化財の「班猫」は、そののちに描かれた。1924年(大正13年)フランスのレジオンドヌール勲章を受賞、1931年(昭和6年)ハンガリー最高美術賞およびドイツのゲーテ名誉賞を受賞。1937年(昭和12年)、横山大観とともに第一回文化勲章を受章。1942年(昭和17年)、78歳で死去。 評論家の竹内逸は息子である。

東京都調布市にて、吉岡耕二のオイルオンペーパー「ノートルダム」、振袖。

東京都調布市にて、吉岡耕二のオイルオンペーパー「ノートルダム」、振袖をお売りいただきました。

不動産業者様のご紹介で、お荷物のお片付け整理でお呼びいただきました。絵画数枚、振袖をご処分されたいとのことでご連絡いただき、本日出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、吉岡耕二のオイルオンペーパー、リトグラフ3枚、振袖など。
吉岡耕二は奔放な中に哀愁を含んだ色彩感覚で、欧羅巴・地中海等を描き続けている洋画家。抽象と具象の絶妙なバランス、意表をつく重層空間の表現が、吉岡作品の魅力です。お売りいただいた作品は、オイルオンペーパー、タイトルはノートルダム。紙に油絵具とオイルパステルで描き、現地の新聞紙などでコラージュし、自由な発想と遊び心が感じられる作品となってます。
当社で買取強化中の作家作品ですので、お客様にご満足いただける査定額で買取させていただきました。本日はお忙しい中、お呼びいただき有難うございました。

吉岡耕二(よしおかこうじ)
1943 大阪府生まれ
1962 大阪市立工芸高等学校美術科卒業
1967 渡仏、パリ国立美術学校に留学
1968 サロン・ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール出品 / パリ近代美術館
サロン・アーティスト・フランセーズ受賞 / グランパレ
1970 サロン・ドートンヌ初出品 会員候補に推挙される
1971 サロン・テールラテンに招待される
1973 アンデパンダン展出品
1975 サロン・ドートンヌ正会員となる
1981 14年間の滞仏生活を終え帰国
東京・大阪を中心に毎年各地で展覧会を開催
1997 個展 / Bunkamura Gallery(以降’98~’’01、’03、’04、’06、’08、’09、’12、’14開催)
2006 アートフェア上海出展(’07も出展)
2007 個展 / 春天画廊(上海)
2008 高島屋大阪店 (大阪)
2009 丸善美術画廊丸の内店(東京)
2010 ギャラリー桜の木(東京)
2011 総合展 招待作家として参加(高知・高松)
「東日本大震災動物支援チャリティー 吉岡耕二版画展」 / Bunkamura Gallery+
アトリエ出版企画「チャリティー総合展」(東京)
芝田町画廊 チャリティー展(大阪)
2013 個展 /東呉大学(台北)
2016 Gallery Etihad で個展(アラブ首長国連邦アブダビ)

東京都小平市にて洋画家 小川博の油彩画、桐たんす、反物、和装小物など。

 

東京都小平市にて洋画家 小川博の油彩画、松創桐箪笥、反物、和装小物などをお売りいただきました。

お引越し前のお片付け整理でお呼びいただきました。絵画や桐たんす、反物をご処分されたいとのことでご連絡いただき、出張買取させていただきました。お売りいただいたお品は、小川博の油彩画「水辺」、松創桐箪笥、作家物の京友禅、紬の反物など。松創桐たんすは高級家具の産地、広島県の府中家具の中で、最高級クラスの家具を手がける名門『松創』による桐製着物箪笥です。『松創』はIDC大塚家具でも取り扱いをしております。少々当たり傷があるものの、大変造りの良いタンスです。桐たんすにしまったままの反物も併せてお売りいただきました。絵画は洋画家 小川博の油彩画。タイトルは水辺、サイズは4号。小川博は日展入選、一水会佳作賞などの経歴を持つ実力派画家です。力強い筆のタッチと、豊麗な色彩のなか絶妙に変化していく色遣いが素晴らしい作品です。状態も良く、お客様にご満足いただける査定額で買い取らせていただきました。たくさんのお品をお売りいただき、有難うございました。

小川博(おがわひろし)1931(昭和6年)~
昭和6年 東京生まれ
日本美術学校卒
元 一水会会員・佳作賞2回
元 新世紀会員・新世紀賞4回
安井賞展入選・日展入選
太陽展出品
大潮会展特選2回、文部大臣賞
個展等多数

東京都世田谷区祖師谷にて佐野繁次郎のリトグラフ、K.UYEDA銀製食器、着物。

東京都世田谷区祖師谷にて佐野繁次郎のリトグラフ「パリの四季・秋」、植田商店K.UYEDA銀製ティーセット、お着物などをお売りいただきました。

業者様のご紹介で、お荷物のお片付け整理でお呼びいただきました。本日お売りいただいたお品は、佐野繁次郎のリトグラフ、植田商店K.UYEDA銀製ティーセット、着物など。佐野 繁次郎は、大阪府大阪市出身の洋画家。こちらのリトグラフは限定150部で制作された「パリの四季・秋」。四人の画家がそれぞれパリの四季を描いた作品の一つ。佐野繁次郎の作風である大胆で力強いタッチで白と黒のみで描かれた、秋のパリの街角。独特な世界観を持つ彼のフィルターを通して描かれたパリの風景は見るものを一瞬で引き込んでしまう魅力を感じます。佐野繁次郎のリトグラフは数少なく、こちらは貴重な本人のサイン入りです。若干ヤケがございますが、当社の買取強化作家作品ですので、お客様にご満足いただける査定額で買取することが出来ました。植田商店K.UYEDA銀製ティーセットは、ティーポット、クリーマー、シュガーポットのセット。STERLING950の刻印があります。「植田商店」K.UYEDAは1884 年(明治 17 年)に東京・京橋区で創業の老舗。K.UYEDAは創業者の植田吉五郎。現在、銀座電通通りにウエダジュエラーとして営業しております。スレや変色などありましたが、銀製品も六角堂の買取強化商品ですので、こちらも高価査定させていただきました。他にも訪問着や友禅などのお着物、帯や和装小物も併せてお売りいただきました。お売りいただいたお品々、大切に次へと橋渡しさせていただきます。本日は数多くのお品をお売りいただき、有難うございました。

佐野繁次郎(さのしげじろう)1900年1月22日~1987年12月2日
1900年に大阪府大阪市東区南久宝寺町に生まれる。1924年に信濃橋洋画研究所にて小出楢重に師事し、絵を学ぶ。二科展を中心に活動を展開し、1929年には同展にて「机」「明るい部屋」で初入選。1930年頃に日本初の純無鉛白粉「御園白粉」で知られる伊東胡蝶園(後のパピリオ化粧品)へ入社し、同社の看板商品である「パピリオ」のロゴデザインなどを手がけ、戦後は重役としても活躍する。1931年の二科展では樗牛賞受賞し、横光利一の「機械」の装丁を担当する。1937年にフランスへ渡りアンリ・マティスに師事、ジョアン・ミロらとも交流を深める。フランスでの滞在生活の中でパリの気風を自らの作風に反映させ、洒脱な雰囲気の優れた作品を複数発表し、デザイナーとしての評価を高めていきます。米国経由で日本へ帰国した1939年以降は横光利一や小林秀雄、舟橋聖一などの文学者の本の挿絵や装丁を数多く手掛け装丁画家としての地位を確立しました。戦後は二紀会の創設に参加しております。1951年から1953年まで再度フランスへ渡り、金山康喜、田淵安一らと交流を深め帰国後は1955年の創刊号から1969年まで『銀座百点』の表紙を手がける。その後も洋画家、装丁画家として活動を展開しますが、1987年に逝去。